成果報告
2024年度
全共闘世代講師による「予備校文化」の形成―ポスト「1968年」の社会運動と市場化する教育
- 京都大学大学院教育学研究科 助教
- 藤村 達也
1970年代以降の予備校では、全共闘運動を中心とした学生運動の経験者が講師として多数参入し、「全共闘世代」と呼ばれて層を形成した。この全共闘世代講師はシンポジウム、講演会、映画上映会、コンサート、登山、野球観戦など、一般的な入試対策から外れた様々な活動を企画し、また入試対策に限定されない様々な教育実践を行った。こうした「人間主義・文化主義(文化路線)を標榜した予備校のあり方」は「予備校文化」とも呼ばれた。
本研究では、予備校において入試対策に限られない様々な活動を行った全共闘世代講師に着目することで、学校教育の外部かつ受験体制の内部という領域において、学校教育に対してオルタナティブな教育実践がいかにして可能であり、またそこにどのような可能性と限界があったのかを明らかにする。
1960年代後半には第一次ベビーブーム世代の大学進学を迎え、大学進学希望者が飛躍的に増加し、多数の浪人生が構造的に生み出された。60年代末から90年代前半の期間には大学入学者に占める浪人生の比率が25%から30%で推移し、また四年制大学の男子に限れば約40%にも至っていた。「六・三・四・四制」や「一浪はヒトナミ(人並)」といった表現にもみられるように、浪人は一定程度一般的な進路選択の一部となった。とりわけ駿台予備学校、河合塾、代々木ゼミナールといった一部の予備校は全国に校舎を展開し、模擬試験等を通じて情報を収集して商品化する情報産業として競争を繰り広げた。
この時期に現れたのが全共闘世代と呼ばれる講師の一群だった。入試不正などにより大学・高校教員の兼業規制が厳しくなり、かわって全共闘世代運動の経験者を中心とした専業講師が増加した。彼らは運動で形成したネットワークを利用するなどして次々に予備校に流れ込んだ。この全共闘世代講師は一般的な入試対策から外れた様々な活動や教育実践を行った。河合文化教育研究所の加藤万里によれば、「予備校文化」という言葉には、「公教育=中心、予備校=周縁という社会の既存の構図を前提にした上で、そうした周縁であるからこそ、逆に制度に縛られない柔軟で自由な教育ができ、そのことによって硬直した公教育=中心を鋭く撃つことができる」という認識が込められていたという。
こうした実践を可能にしたのは予備校が有する市場性であった。予備校の特徴として、教師が生徒を評価する公教育とは対照的に、生徒が講師を授業アンケートなどで評価する構造がある。予備校講師は年度単位で雇用され、評価によって次年度の契約継続や給与、担当授業の内容や数などが決まるのが一般的である。このことは予備校講師が生徒からの選択や講師間の競争、不安定な雇用に晒されることを意味するが、同時に全共闘世代講師はこの構造に積極的な意義を見出していた。第一に、市場性は生徒に対する教師の管理や権威の不在に読み替えられ、公教育における管理教育や大学における権威主義を批判する論拠となった。第二に、授業アンケートによって待遇が決定するということは、生徒からの評価を勝ち得てさえいれば、自由な授業実践が可能であることを意味していた。入試対策にとらわれない実践は、予備校において例外的に発生したのではなく、予備校の構造ゆえにこそ生まれたのだといえよう。
こうした全共闘世代講師の代表的存在が牧野剛である。牧野は名古屋大学在学時に学生運動に参加し、河合塾国語科講師となった。牧野は予備校文化の中心的存在であり、授業中に飲酒する、生徒とのコンパや登山、野球大会などを開催する、PKO法案への反対デモに生徒を動員するなどの目立つ振る舞いや、共通一次試験の問題を「的中」させたことによってマスコミや受験生の注目を集め、賛否はあれども高い人気を有していた。牧野は管理教育や権威主義だけでなく、予備校における受験技術や偏差値主義に基づく受験指導をも内部から批判し、指導にあたっては受験生との人格的交流を重視していた。牧野の指導は、自発性を引き出す人格的関わりと入試対策を架橋し、浪人生活を外的に強制されたモラトリアムとして位置づけ、将来の人間形成にも繋がる期間として積極的な意味を付与しようとするものであった。こうした指導は受験体制の内部において受験体制から疎外された大衆的な受験生を包摂し、再び受験勉強へと水路づけるものであった。
このように牧野に代表される全共闘世代の講師が形成した予備校文化とは、市場性により教育が商品化されることをあえて肯定的に捉え、予備校内部において既存の受験体制に回収され尽くさない文化的領域を作り出し、公教育における管理教育や大学の権威主義を相対化する対抗的な運動であった。
2026年5月
※現職:奈良女子大学文学部 特任助教




