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研究助成

成果報告

若手研究者のためのチャレンジ研究助成

2024年度

日本の国体論から見る台湾統治の理念と実践:戦間期から戦争期にかけての憲法論議と治安法制をめぐって

東京大学大学院総合文化研究科 博士後期課程
斉 崇硯

研究の動機
 戦前の天皇制および国体論は、日本内地と外地の両方に深い影響を与えた統治メカニズムであった。戦間期から戦時期にかけて国家再編をめぐる多様な国体論が展開されたが、それが外地台湾の統治に及ぼした影響については十分に解明されていない。日本の国体論と台湾統治の本質を包括的に理解するため、国体論を内外地の相互的関係から捉え直す必要があるという問題意識が本研究の出発点である。

研究の意義
 従来の研究に見られた「一国史観への偏重」、「国体論の単純化」、「植民地主体性の強調」という課題を克服する点に本研究の学術的意義がある。台湾史と日本史を相互補完的に捉えることで、国体論が台湾統治に対する重要性を解明し、また外地台湾の存在が帝国全体の国体論理解に不可欠であることを実証することができる。

研究の目的
 本研究は、戦間期から戦時期における外地台湾の国体論の実態と内外地の連動性を解明し、国体論が帝国憲法論議、治安法制、社会教化を通じて台湾統治に与えた影響を構造的に明らかにすることを目的とする。具体的には、1920年代の台湾における司法官僚の思想と活動、1930年代の台湾における天皇機関説排撃と国体明徴運動、および戦時下の台湾国民精神研修所における国体論者の思想と活動を解明する。以下、それぞれの内容について論じる。

研究の成果
 博士論文の第一章では、1920年代の在台司法官僚を対象に、治警事件前後や治安維持法の台湾適用過程における思想・行動を検証し、国体論の展開とその影響を解明した。治警事件前後、台湾には多様な国体論が並存し、憲法施行や台湾人の処遇をめぐる異見が存在した。同事件では、国体の普遍性を堅持する検察側と、台湾人の権利や特殊性を重視して台湾議会設置運動を擁護する弁護側との相違が浮き彫りとなった。また、同じ検察の上内恒三郎と三好一八の間にも思想的相違があり、それぞれ美濃部達吉、穂積八束に近い傾向を示した。さらに、治安維持法の適用過程でも同様の動態が見られる。同法の台湾施行に対して、伊沢多喜男総督や坂本森一警務局長ら高級内務官僚の態度は消極的であったが、後藤和佐二、三好、上内、和田一次ら司法官僚の態度は積極的であった。彼らは国体振興団体「赤誠会」に加入し、細部の相違を抱えつつも「天皇制」護持という強固な共識を持ち、総督府内部の「国体変革」をめぐる議論や中台同志会の事例において重要な役割が看取できる。最後に1928年の同法改正前後、上内の国体観は内地の筧克彦や田中智学らの思想と連動し、初期の血縁的・家族国家観から、普遍的性格へと変容した。総じて、国体論の形成において内外地は緊密に連動しており、国体を理解する上で外地台湾の経験は不可欠である。
 第二章では、1930年代半ばの機関説排撃・国体明徴運動が日本の台湾統治に与えた影響を、内地と外地の連動から解明した。第一に、台湾では日本内地に先んじて文教局による機関説排撃事件が起きていた。その過程で、台湾の官僚(安武直夫)や国体論者(井上孚麿)が内地の政党(政友会)、民間右翼(簑田胸喜)、陸軍皇道派(真崎甚三郎)と結託し、台湾の事件を内地の排撃運動の契機とした。また、彼らが支持した筧克彦の「神ながらの国体論」は、機関説を信奉する在台内地の知識人を排除する一方、国体精神を信奉する台湾人を積極的に包摂し、当時の台湾の代表的国体論となった。この思想は後に『国体の本義』編纂等を経て帝国全体の主流となっており、総力戦以前の国体理解において台湾の経験が不可欠であったことを示している。第二に、国体明徴運動の比較を通じ、内地の運動が官民両方で展開されたのに対し、台湾総督府は民間の自発的運動を抑制し、官製運動を主導する傾向が強かったと判明した。さらに、内地が終始機関説排撃を強調したのに対し、台湾では教育・宗教の範囲に留まり、排撃も激化しなかった。これは、台湾の軍部の関心が独自の政治的思惑にあり、国体明徴を副次的に扱ったためである。その結果、総督府は軍部からの圧力を回避できた。以上より、30年代の台湾統治は、内地と外地が国体をめぐる論説の連動においてのみ理解可能である。
 第三章では、国民精神研修所の設立過程と思想動向、および事業内容を検証した。まず同研修所は、小林総督期の人事刷新、国体明徴運動、皇民化運動などの要因が相俟って形成された。その後、総督府、皇民奉公会、在台軍部の三者関係の変容に伴い、その機能も変化した。また、戦時下台湾の社会教化においては、複数の国体論が並存していた。これらは中西旭、照島紀男、滋賀多喜雄、山鹿光世らの在野神道家・原理日本社・日本学生協会の各系統からなる「観念右翼」と、岡江豊の「革新右翼」系統に分類され、主導権をめぐり競合関係にあった。しかし総じて言えば、戦争末期の他の錬成施設が軍事動員に直結した訓練を担ったのに対し、同研修所は中堅指導者の養成と精神主義的傾向を維持し続けた。この特質は、その国体論者が筧克彦、今泉定助ら内地の国体論者と緊密なネットワークを持つことに起因する。こうした錬成体制は、戦局悪化に伴い軍事訓練へと移行するにつれて、台湾の国体論者らは軍事主導の体制に批判的であったものの、内地のような顕著な衝突事件へと発展することはなかった。最後に、戦争末期に皇民奉公会訓練部が設立され軍人が主導すると、戦争準備は優先となり、国体論は動員のための空疎なスローガンへと形骸化した。

今後の課題
 今後の課題として、1940年代新体制下の憲法論議、皇民化運動期の国家神道、戦時下台湾人国体論者の思想解明が挙げられる。さらに、国体論が東アジアや東南アジアの「八紘一宇」など新国際秩序構想へ与えた影響の検証も不可欠である。これらを数年間の研究方向と位置づけ、探求を継続したい。

2026年5月