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研究助成

成果報告

若手研究者のためのチャレンジ研究助成

2024年度

二重制期ハプスブルク帝国の多宗教・多宗派公認体制と対ムスリム政策:ムスリム住民の法的地位を中心に

東京大学大学院人文社会系研究科 博士課程
奥田 弦希

 現代世界では、異なる宗教的背景をもつ⼈々と共に暮らすための制度設計や社会的合意形成が、ますます重要な課題となっている。特に異なった宗教を信仰する⼈々がどのように共存しうるのかという問題は、各国において社会的緊張を有する論点として繰り返し議論されている。そうしたなかで、オーストリアが欧州諸国で初めてイスラームを「公認宗教」として法的に位置づけ、事実上の国教であるカトリックと対等の地位を認めていたという歴史的経緯が、本研究テーマの出発点となった。さらに、1912年に始まるこの法制度が、2015年の新法制定を経て21世紀のオーストリアにも継承されていることから、現代オーストリアの宗教制度が帝政期に遡る⻑期的な連続性を有している点にも強い関⼼を抱いた。
 本研究は、近現代ハプスブルク帝国史研究が主にナショナリズムに焦点を当ててきたのに対し、宗教、特にキリスト教ではなくイスラームを対象とする点に新規性がある。中でも本研究の中⼼的な問題意識は、カトリックを中⼼に構築されていたハプスブルク帝国の宗教制度と社会秩序の中に、いかにしてイスラームを組み込み得たのかという歴史的課題にある。当時のオーストリア半部(オーストリア=ハンガリー帝国のうち、現在のオーストリアやチェコなどを含むオーストリア側の領域)では、公認宗教制度は階層的な教会組織構造を持つカトリックを基軸として設計されていた。こうした制度構造に対し、イスラームは宗教的規範であると同時に⽣活・社会秩序全般を包含する規範体系であり、既存制度と容易に整合しない要素を多く含んでいた。したがって、帝国がイスラームの諸規定・慣習を既存の法体系の中にどのように接合したのかは、制度史上重要な問題である。
 ハプスブルク史研究において帝国のオーストリア半部でのムスリム住⺠に対する政策についてはほとんど検討されてこなかった。なぜなら帝国内のムスリムのほとんどはボスニアに居住していたことから、先⾏研究は必然的にボスニアのみを対象地域としてきたからである。中でも1912 年イスラーム法を専論とした研究はほとんどない。1912 年イスラーム法はその内容がきわめて簡素であり、また施⾏から帝国崩壊までわずかの期間しかなかったことから、先⾏研究では単に現在のイスラーム法の前史として描かれ、またその規定が不完全であると指摘されてきた。
 以上の先⾏研究の問題点から、⼆重制期ハプスブルク帝国の多宗教・多宗派公認体制におけるムスリム住⺠の法的地位の形成過程を検討することが本研究の⽬的である。この過程には関係各省の対⽴や調整、ムスリム住⺠の請願、ウィーン市など、帝国を横断する多様なアクターが関与しており、単線的な制度形成ではなく、多⽅向的な交渉の積み重ねとして捉える必要がある。こうした観点から、どのような交渉・調整・妥協の上にムスリム住⺠の法的地位が形成されてきたのかを明らかにすることが、本研究の⽬的である。
 本研究から、周縁(ボスニア)から中⼼(ウィーン)へのムスリム移住は、植⺠地統治を憲法下の法的課題へと再定位させた「周縁から中⼼への逆流」というプロセスであったことが明らかになった。その象徴である1912年イスラーム法は、⼀夫多妻制への社会的懸念に対し⼀夫⼀妻制を義務付けるなど明確な境界を設ける⼀⽅ 、条⽂の⽂⾔ を意図的に曖昧にし、細則を命令に委ねることで、イスラームを既存法秩序へ接合させた「調整と妥協」の産物であった。都市⾏政においても、埋葬や医療(⼥性の医学部⼊学)などの実務⾯で、宗教的要請に応じた制度的変容が⽣じていた。軍事⾯では、ボスニア出⾝の兵⼠が⼆重制下で共通軍にのみ属し、英仏の植⺠地兵とは対照的に⾼位将校への昇進が可能であった点が特筆される。これはムスリム住⺠が帝国の構成要素とみなされた証左である。総じてこれらは、帝国が⼤戦直前においてもなお、宗教的多様性を制度的に調整しうる包摂能⼒を保持していたことを⽰している。
 以上の知⾒を踏まえつつ、帝国崩壊を「⺠族対⽴による不可避の帰結」とみなす決定論的衰退史観が再検討される近年の研究動向のなかで、本研究は帝国末期を異⽂化統合の実験場として捉え直す視座を提⽰する。すなわち、本研究が明らかにしたムスリム住民の法的地位形成過程は、帝国末期を単なる衰退と解体の時代としてではなく、多宗教的現実に対応するための法的適応がなお試みられていた時代として捉え直す可能性を示している。とりわけ、イスラームという既存の宗教法制に容易には収まりきらない規範体系を、条文上の限定、行政命令への委任、都市行政上の実務的調整を通じて制度内に接合しようとした点に、帝国の多宗教統合能力の一端が表れている。今後は、この多宗教統合をめぐる制度的創意が、帝国崩壊を経て現代オーストリアの宗教制度へいかなる経路で継承されたのかを跡づけることが課題となる。

2026年5月