成果報告
2024年度
文化財保存学における修復の分析哲学的定義
- 東京文化財研究所文化遺産国際協力センター アソシエイトフェロー
- 大川 柚佳
研究の背景、目的、意義
修復者は、修復原則と、現実の制約や個々の作品の事情との狭間で日常的な判断を下している。しかし、そうした判断の適切性を評価する理論的な基準は明文化されておらず、修復者間の伝承の域にとどまってきた。
申請当初、本研究は「修復を必要十分条件あるいは選言的定義(複数の条件のうちいくつかを満たせば定義とみなすもの)から定義できるか」という問いを核に据えていた。分析哲学的手法を用いて修復の外延を探り、倫理規範と現実的制約が相反する局面でも機能する枠組みを構築することが目的であった。しかし研究を進める過程で、修復を定義するに先立ち、これまで修復を定義づけてきた諸要素を検討する必要性が明らかとなった。諸要素とはすなわち、作者の意図や作品の同一性への配慮と、修復原則の遵守である。
日本は伝統的な修復技法や保存科学分野において高い水準を誇る。しかし、なぜ修復するかという倫理学・哲学的問いへの取り組みは依然として希薄である。本研究は、分析哲学の議論を保存修復理論に援用することで、この間隙を埋めることを目指す。さらに本研究は、西洋由来の普遍的原則を一律に適用するアプローチの限界を示し、多様な実践を評価できる枠組みを提供する。
研究成果の概要
研究は相互に連関する三つの成果として結実した。以下にそれぞれの内容と知見を示す。
(1) 作者の意図への配慮と修復の正当性
作者の意図を配慮することが修復実践を倫理的たらしめるという、修復倫理において優位な立場を批判的に検討した。具体的には、分析美学分野で長年議論されてきた「作者の意図は作品解釈においてどこまで優先されるか」という問いを修復の文脈に応用した。考察として、個別の作品は作者の多様な意図を内包しており、修復者はそれらを選択的に考慮することで処置の意思決定を下していることを指摘した。したがって、単に作者の意図へ配慮しさえすれば、当の修復処置が倫理的に正当化されるとは主張できない。
【成果】修復には作者の意図を解釈するプロセスが含まれるため、作者の意図は一律には処置の正当化根拠にならない。むしろその解釈プロセスの説明可能性こそが修復の倫理性を支える。
(2) 可逆性原則の限界
可逆性とは修復による付加物を後々除去できる方法で処置を行うことを指し、修復倫理の基本原則として国際的に認識されている。しかしながら、本原則は技術的に実現不可能であるという限界を抱えるのみならず、処置責任を先送りにしかねない思想的問題も内包する。
本研究では、保存したい価値は社会的な文脈に依存するという、近年注目を集める保存理論のもとで修復原則を理解すべきであることを主張した。この理論のもとでは、いかなる状況にも通用する絶対的な原則を倫理的根拠とすることには限界がある。修復の倫理性はむしろ、個々の処置がどのような判断プロセスを経たかにある。
【成果】修復処置の倫理性基準は、原則への準拠から意思決定プロセスの説明可能性へと転換されるべきである。
(3) 作品の同一性への構成的関与
第三者による物理的介入である修復は、作品の同一性にいかなる影響を与える行為なのか。これに答えるために、修復をめぐる哲学的議論を調査した。従来的な修復観において同一性は主に作者に帰属されていた。一方近年の修復実践では、同一性は鑑賞者や修復者らの参与によって流動的に構成されるものとして捉えられる。本研究では、この立場が現代美術の修復にとどまらず、現代において行われる実践であれば古典美術においても適用されることを事例とともに提示した。
【成果】修復は同一性を維持する手段にとどまらず、作品の同一性の構成に関与している。そのため、修復者は作品の同一性への影響に自覚的である必要がある。
三つの研究の連関と申請時の問いへの応答
申請時に目指した選言的定義の探求は、本研究を通じて別の形で結実した。修復とは、作品から独立してそれを保護する行為ではない。むしろ個別の処置判断を通じて、作者の意図や作品の同一性を解釈する行為である。ゆえに修復者は作品の価値構成に関与している。その関与の責任を果たすために、修復者の意思決定プロセスの説明可能性が倫理的に重要である。
今後の課題と展望
残された課題は主に二つある。第一は記録の実践上の課題である。人的・時間的制約をともなう修復業務の中で、意思決定プロセスをどの程度・どのように明示化すべきかは、実務者の声を反映させながら検討しなければならない。第二は熟議プロセスの設計である。説明可能性を倫理の基準に据えるならば、誰がどのように合意形成をするかという問いに答える必要がある。
保存修復を応用哲学の一分野と位置付けて哲学分野へ議論を開き、その含意を実践に還元する取り組みの一端として、以上を本研究の成果とする。
2026年5月
※現職:TERRADA ART ASSIST株式会社 コンサバター




