成果報告
2024年度
触覚によるファッション研究の更新――アイデンティティ形成と自己の保存の場としての衣服
- 東京科学大学大学院環境・社会理工学院 博士後期課程
- 安齋 詩歩子
本研究は、視覚中心の従来のファッション研究を「触覚」という観点から更新する試みである。着想の源である精神医学者ガエタン・ガシアン・ド・クレランボーは、布の触感による性的快楽を示す女性の「接触愛好症」を発見すると同時に、モロッコの民族衣装や古代の一枚布の衣装を、触覚的質感に迫る写真や人類学的研究として残した。しかし彼の「接触愛好症」の発見や衣服研究は、その偏執性のみが注目され、その学術的意義はほとんど検討されてこなかった。ファッションにおける視覚優位の研究構造と彼の先駆的研究の再検討こそが、本研究の動機となっている。
まず、クレランボーが提唱した「接触愛好症」について、彼がその症例を発表した「女性における絹に対する性愛的情熱」という同名の2つの論文について分析した。この症候はたしかに布に対する倒錯であるが、明らかに純粋な触覚と性的快楽の関係を追求したものである。ファッション研究は他者の「まなざし」を基盤とする視覚的意味づけに偏っていることに反し、この症候は布地が身体感覚を形成する触覚的次元を重視している。「接触愛好症」を私が「情動の触覚」と名付ける自己保存の力の微細な変化を読み取る働きであることであると仮定すると、これは他者のまなざしを退け、触覚によって自己を意味づけると同時に自己を保存(ケア)する行為として理解できる。また、彼が残した大量の写真を分析的に見てみると、彼の写真の多くは着付けの細部や布の襞といった通常撮影されない触覚的場面に集中していることから、こうした細部への偏在的な注視は、身体と布の接触経験を自己の輪郭として反復的に組織化し、視覚に先行する触覚的アイデンティティの形成を支えていたと考えられる。
次に、衣服の触覚性が精神的ケアに果たしうる役割について、「接触愛好症」にも通じる身体接触への志向性という観点を踏まえながら事例分析を行った。ここでは、衣服がもつ触覚的経験が心理的安定や自己感覚の維持にどのように関与しうるのかを検討するため、衣服に関する幻覚的訴えに対する触覚的な衣服介入の実践例に着目した。特に、統合失調症の女性患者による「器がない」「服がない」といった訴えの事例は、身体表象と衣服との関係を考える上で重要な示唆を与える。この症例については、皮膚や衣服が心理的自我を保持する「容れ物」として機能するという精神分析的・精神病理学的な先行研究を参照しながら解釈を行った。すなわち、皮膚や衣服は主体の境界を形づくる象徴的な器として働いており、この視点から見ると、衣服の欠如に関する幻覚的訴えは、身体表面をめぐる感覚的・心理的境界の揺らぎを表象していると理解できる。皮膚感覚を補強する目的で衣服を身につけることは、単なる物理的保護にとどまらず、情動的なレベルでの接触経験を生み出す契機となる。布地が皮膚に触れる感覚は、主体が自らの境界を感覚的に確認する契機となりうる。その結果として、触覚を介した身体経験が自我感覚を補強し、ひいては自己の持続や保存に寄与する可能性が示唆される。
加えて、観念的な「触覚」という問題についても、美学的な視座から「装い」という次元において再検討を行い、特に動物と人間における「装い」の差異を手がかりとして、触覚に基づく物質的アイデンティティの理論化を試みた。動物における装いは、毛皮や羽毛といった身体の被覆を通して、身体と環境との生理的連続性を維持する仕組みとして機能している。それは環境への適応や保護の機能を担いながら、身体そのものの延長として存在する。一方で人間の衣服は、身体の自然的被覆とは異なり、文化的・技術的実践を通じて身体と環境との関係を再構成する媒介として現れる。衣服は単なる保護の装置ではなく、身体と世界との関係を象徴的かつ社会的に編成する装置でもあるのである。こうした差異をより根源的に分けているのは、触覚の位相の違いにほかならない。動物の被覆は、皮膚の内側から生成される感覚として身体と不可分に結びついた「内発的触覚」として理解できる。それに対して人間の衣服は、身体と外界とのあいだに介在する布の感触を通して経験される「外発的触覚」として機能する。すなわち衣服は、身体そのものの感覚ではなく、世界とのあいだに設けられた媒介面として触覚を成立させる装置なのである。このように捉えることで、装いは単なる外観や装飾ではなく、触覚を通して身体と世界の関係を編み直す美学的実践として理解されうる。
以上の調査結果から、ファッションデザインやウェルビーイング研究への応用可能性も見えてくる。すなわち、衣服を単なる審美的・機能的対象としてではなく、触覚的ケアを前提とした身体経験の装置として捉えることで、衣服制作やファッションワークショップの新たな実践的意義が開かれる可能性がある。こうした観点から、今後の展望としては、触覚を基盤としたケアの視点をファッションデザインの領域に導入し、衣服とウェルビーイングの関係を再考するための理論的および実践的可能性を提示できると考えている。
2026年5月




