サントリー文化財団トップ > 研究助成 > これまでの助成先 > 安楽死の法制化―人間の尊厳とは何かという問いからの検討―

研究助成

成果報告

研究助成「学問の未来を拓く」

2024年度

安楽死の法制化―人間の尊厳とは何かという問いからの検討―

大阪大学大学院人間科学研究科 准教授
綿村 英一郎

 本研究では,高齢化が進む日本社会における「安楽死(尊厳死)」の意識と制度導入の影響について,2つの視点から検討を行った。第一の研究では,日本人の安楽死に対する基本的な態度構造を明らかにし,文化的価値観との関係性を調べた。第二の研究では,安楽死が合法化されたと仮定した際に,市民の心理的反応がどのように変化するかを実験的に検証した。両研究は,今後の制度設計や倫理的議論に対して,心理学的・社会的観点から重要な示唆を提供している。各研究の詳細は下記のとおりである。  第一の研究では,全国から収集した890名の回答データをもとに,「安楽死態度尺度(EAS)」を日本語に適用し,日本人の安楽死観の因子構造を初めて明らかにした。その結果,「生命に対する柔軟な考え方」「尊厳ある死の選択」「家族の同意」の3因子が抽出され,これらが安楽死賛成の強い予測因子であることが判明した。特に,第2因子「尊厳ある死の選択」は最も強く安楽死支持と結びついていた。また,従来の文化的信念よりも,こうした心理的要素の方が安楽死に対する態度をより的確に説明することが明らかになった。これは,個人の尊厳や自律性といった価値観が,日本社会においても着実に浸透しつつあることを示している。  第二の研究では,安楽死法が制定されたという架空のニュース記事を提示し,その読後における心理的変化を測定する実験を行った。結果として,法制度の存在が倫理的暴走(スリッパリー・スロープ)に対する懸念をむしろ軽減し,安楽死に対する受容度を高める効果が確認された。さらに,制度が対象としない事例(うつ病や経済的困窮など)に対しても安楽死を容認する傾向が見られ,制度的境界と心理的境界との間に乖離があることも明らかになった。これは,制度の導入が人々に安心感や選択肢の明確化を与える一方で,潜在的にはより広い適用への期待も同時に生まれる可能性を示唆している。

 以上2つの研究は,安楽死に関する議論を心理的側面から可視化することに成功した点で(右図),国内外の学術的議論への貢献が期待される。また,安楽死の是非を問う社会的対話において,単なる賛否を超えた「人間らしい死とは何か」という問いを考察するきっかけにもなりえる。今後は,世代間や地域間の差異,さらには死生観の変容過程を追跡する縦断的研究や,臨床・政策現場との連携による実装研究が求められる。

2025年9月
※現職:大阪大学大学院人間科学研究科 教授