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研究助成

成果報告

研究助成「学問の未来を拓く」

2024年度

韓国における「白丁」のことばの収集・分析・記録:職業意識の多様性に注目して

椙山女学園大学情報社会学部 教授
樋口 謙一郎

1. 研究開始当初の目的
 近代以前の朝鮮社会における被差別階級「白丁(ベクチョン)」は、屠畜などに従事し、また生活全般で身分差別を受けた。その差別には識字や学校教育の禁止、ほかの身分の者への敬語使用の強要なども含まれていた。一方、その生業である屠畜やその対象である牛を神聖視する精神文化(自然観、死生観、宗教観、聖職観、聖牛観)を有し、また職業を通じて経済的成功を収めた者もいた。
 かような状況で、白丁の間でのみ通用することばができ、そのなかには牛を聖なる存在とみなす呼称や、屠畜の儀式・営為を表すことばが含まれている。白丁のことばは朝鮮の近代化、さらに日本統治終結後の韓国の国民国家形成と国語・標準語の地位や教育手法の確立のなかで、一般的には忘却されていったが、白丁出身者とその周囲の人々は、そのことばを非公式的に使用し、またそこに宿る精神を継承してきたことが、断片的ながらもわかっている。
 かような白丁のことば、特に職業意識に関することばは、韓国の職業文化の複雑性を示すものであるが、今日まで十分な研究がなされていない。この認識から、本研究では、韓国の言語文化の多様性を明らかにし、ともすれば韓国社会に今なお立ち現れる人々の職業意識、階級意識に対して相対的な視点をもたらすべく、①白丁の(特に)職能に由来・関連することばの収集と記録を現地資料とヒアリングにより行い、研究の道筋をつけることを目指す、②白丁の言語文化の置かれた状況を確認し、研究上の理論的、方法論的、倫理的な課題と展望を検討する、③本研究の重要性を顕在化させ、日韓を中心としたグローバルな研究ネットワークを構築する──の3点に取り組む。

2. 現在までに得られた知見
 文献精読、内外の研究者との協議、インフォーマントに対するヒアリングにより、次の点が明らかになった。
 第1に、白丁のことばの多様性、重層性である。社会的方言的性格を持つ白丁のことばを収集していると、その地域的多様性・ばらつきがかなり大きいことがわかる。また、白丁の特に屠畜における儀式作法の細かさと、そのことばの複雑さが確認された。儀式作法のことばは、上述した地域的多様性とともに、屠場の経営方式によっても異なる。
 第2に、インフォーマントの不可視性である。研究開始当初、複数の研究者・インフォーマントから「階級や身分区分はもはや存在しない」と言われたが、そうかといって、実際には白丁のことばに関する情報や語り手にアクセスすることは予想以上に困難であった。白丁のことばは、記録としてよりも社会的、集合的な記憶のなかに断片的に存在しているが、それを語り得る人々が少なくなっているだけでなく、存在が確認できるインフォーマントであっても、語ることに躊躇が見られ、容易に調査につながらない。この状況は、単なる調査上の制約ではなく、韓国社会において身分意識や差別・被差別を語りにくい雰囲気が現在も根強く存在していることを示すものと考えられる。このことは本研究が今後さらに深化・拡張していく余地を持つことを示唆するともいえ、この矛盾を経験的に確認できたこと自体が、本研究の大きな成果といえる。
 第3に、日本の社会方言の存在と、その比較可能性である。現在、いかなる観点、方法による比較が可能かを模索している段階である。比較研究の枠組みを確立することで、東アジアにおける社会的周縁化と言語文化の関係をより広く明らかにできる可能性がある。

3. 研究進捗と研究成果
 研究進捗としては、上記研究目的の①はほぼ遂行できたので、助成期間終了後も、引き続き②③を深化させていきたい。
 現時点での研究成果として、下記の国際会議報告を挙げる(いずれも、本助成採択に前後して採択されたJSPS科研費 24K21364の成果報告を兼ねるものである)。
・Ken'ichiro Higuchi, Language, Discrimination, and Memory: Tracing the Legacy of Korean Baekjeong, The 2nd IACRS International Conference, 20 March 2025.
・Ken'ichiro Higuchi, Minor-Minorities and Multicultural Education in East Asia, 30 August 2025.
・Ken'ichiro Higuchi, Towards the Overlooked: Rethinking Multicultural Education in the East Asian Context, The 8th Annual International Multidisciplinary Conference (University of Malta Junior College), 11 September 2025.

 また、本研究の成果を、教育の場でどのように活用できるかを模索していきたい。白丁のことばは、韓国社会において十分に語られてこなかった歴史的経験を映し出しており、当該社会の多様性や歴史的重層性を考える手がかりとして、授業のなかで、教科書や一般的な歴史叙述に現れない人びとの声やことばを扱う実践に取り組みたい。

4. 謝辞
本研究助成報告にあたり、選考委員の先生方、財団職員の皆様、また、研究にご協力いただいた内外の研究者、インフォーマントの皆様に心より御礼申し上げます。

2025年9月