成果報告
2024年度
イスラム紛争における元兵士の脱過激化・社会復帰政策の効果検証と展開
- エセックス大学経済学部 講師
- 津田 俊祐
1. はじめに:交渉によらない紛争解決への新たなアプローチ
テロや紛争のない平和な世界の実現は、現代社会における喫緊の課題である。イスラム過激派組織のような非国家主体が関与する紛争では、組織のトップとの直接交渉が極めて困難な場合が多く、従来のアプローチは限界に直面している。この行き詰まりを打開するためには、交渉に依存しない新たな紛争解決のデザイン、すなわち組織ではなく「個人」に焦点を当て、戦闘員が自ら組織を離脱するインセンティブを創出するボトムアップのアプローチが不可欠である。元兵士が円滑に社会復帰できる環境は、現在活動中の戦闘員が投降を決意する強力な誘因となりうる。しかし、彼らが社会復帰する際に直面する障壁や、その意思決定のメカニズムに関する科学的知見は著しく不足していた。本研究は、この知識の空白を埋めるため、NGOとの強固な協力関係のもと、世界で初めて過激派組織元兵士への大規模な定量的調査及び政策介入実験を実施するものである。
2. 二つの集団へのアプローチ:囚人兵と投降兵の比較分析の重要性
背景の異なる二種類の元兵士集団を調査・比較し、より効果的な政策のあり方について精緻な理解を目指す。
• 囚人兵(調査計画中): 一つは、ソマリアの首都モガディシュ中央刑務所に抑留されている元兵士(囚人)である。彼らは過激派組織での活動中に逮捕された人々であり、もし逮捕されなければ活動を続けていた可能性が高い、より「ハイリスク」な集団と考えられる。彼らを理解することは、紛争の核心に迫る上で極めて重要である。当初、この囚人兵約500名を対象とした調査を計画していたが、刑務所との調整や介入デザインの精緻化に時間を要しており、現在準備を進めている段階である。
• 投降兵(調査先行実施): もう一つは、自発的に組織を離脱した投降兵である。彼らのほうが過激化のリスクは相対的に低いと考えられうるが、なぜ彼らが組織に入り、そして抜け出すに至ったのかを解明することは、投降を促す政策を考える上で不可欠である。刑務所での調査準備と並行し、こちらについては調整が円滑に進んだため、ソマリア4か所のキャンプに滞在する投降兵約259名を対象とした調査及び介入実験を先行して実施し、貴重な知見を得ることができた。
3. 投降兵調査から得られた知見
先行して実施した投降兵への介入実験では、8週間のリハビリテーションプログラムにおいて、従来の「個人的動機」に基づく内容に加えて、「社会的動機」(元兵士が将来「平和の担い手」になるというメッセージ)を付加した介入群と、従来の内容のみの対照群とを比較した。その結果、示唆に富み、かつ複雑な結果が得られた。
• イデオロギーへの効果: 介入群は、対照群に比べてアル・シャバーブという組織への支持は低下した一方で、いくつかの質問項目では、逆説的に暴力そのものを肯定する傾向が強まるという結果が見られた。これは、介入メッセージが「アル・シャバーブを介さない暴力であれば正当化される」という解釈を招いた可能性や、調査に対して本心を隠す「戦略的回答」の可能性を示唆しており、より深層心理を探るテキスト分析等の重要性が浮き彫りになった。
• 期待形成と努力への効果: 介入群は、将来の期待所得が低下し、社会復帰に向けた目標を設定する課題への努力量も減少する傾向が見られた。課題での回答内容の質についてさらなる分析が求められる。
• ポジティブな兆候: 自由記述回答のテキスト分析では、介入群は「peace(平和)」「want(望む)」「better(より良く)」等のポジティブな単語をより多く使用しており、意識変革への兆候も見られた。
4. 今後の課題と展望
投降兵調査から得られた複雑な結果は、元兵士の心理の機微と、介入デザインの難しさを浮き彫りにした。今後は、計画が進行中の刑務所の囚人兵を対象とした本調査を着実に遂行することが最優先課題である。投降兵との比較分析を通じて、よりリスクの高い層の意思決定メカニズムを解明し、両者に有効な介入手法を特定していく。本研究で得られる世界でも類を見ないデータと知見は、ソマリアのみならず、同様の課題を抱える国々での平和構築に貢献しうる、学術的にも政策的にも極めて価値の高いものとなるであろう。
2025年9月




