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研究助成

成果報告

研究助成「学問の未来を拓く」

2024年度

哲学方法論を問い直す:領域横断的アプローチによる哲学的思考実験の改良可能性の探究

北海道大学大学院文学院 博士後期課程
稲荷森 輝一

研究の背景  科学理論の評価においては実験データとの整合性が問題となるが、哲学理論の評価においては、自明な前提、すなわち直観的に正当化される前提との整合性が問われる。そのため哲学者は、古代ギリシャ以来、論証のプロセスで思考実験を用いてきた。トロッコ問題に代表される思考実験は、架空の状況における人々の直観を引き出し、特定の前提の妥当性を検討する手法である。このように哲学においては、2500年以上にわたり思考実験による直観(事例直観)が重要な役割を果たしてきた。
 しかし2000年以降、質問紙調査などを通じて一般人の直観を調査する「実験哲学」が興隆すると、思考実験に対する直観が文化的背景や教育レベル (Weinberg et al. 2001)、提示順序 (Sinnott-Armstrong 2008)、感情的反応 (Greene 2007) など、多様なバイアスに左右されることが明らかになった。その結果、思考実験や事例直観の信頼性が揺らぎ、哲学方法論をめぐる議論が活発化している。

研究内容  そこで本研究では、哲学に加えて心理学・神経科学・情報科学の専門家との協働を通じ、思考実験の信頼性を高める手法を実証的に探究することを着想した。具体的には、直観に影響を及ぼすバイアスを取り除いてより信頼性の高い直観を得るための実験的手法や、バイアスの影響を受けた事例直観を命題の正当化において適切に活用する手法を検討し、思考実験の改良が可能かどうか、また可能であればどのように実現できるのかを探究した。
成果① 思考実験・実験哲学における「理解エラー」問題の再検証  実験哲学では、参加者の多くが課題を正確に理解できないという「理解エラー」問題が指摘されてきた (e.g. Inarimori et al. 2024)。本研究では、「記憶の哲学」や「自由意志の哲学」を題材に、シナリオや質問紙の改善によってこの問題を部分的に解消できることを示した。
 さらに、Cova & Martinez (2024) など理解エラーそのものの存在を疑問視する研究を踏まえ、日米を対象に決定論の理解チェックに用いられる「バイパス文」の妥当性を再検証した。その結果、決定論をはじめ高度に哲学的な概念に関するスクリーニング項目には、文意の多義性を踏まえた厳密な設計が不可欠であることが明らかとなった。
成果② 大規模言語モデル (LLM) による思考実験・実験哲学の改良可能性  当初の計画では、LLMを用いた予備実験を通じて、言語表現や翻訳といった要因が思考実験に与えるバイアスを検証することを想定していた。ところが実験の過程で、一部のLLMは提示順序効果など、人間が通常受けるバイアスに対して比較的堅牢であることが分かった。
 さらに、LLMの出力は深層学習に基づく「パターン認識」として理解でき、人間の直観も同様に自然的なパターン認識として捉えることができる。この観点からすれば、バイアスに左右されにくいLLMの出力(Artificial Intuitions)は、人間の直観よりも信頼性の高い証拠として哲学研究に資する可能性がある。本研究成果の一部は、既に以下の論文にて公表されている。
 • Arata Matsuda, Masashi Takeshita (2025) What Should Philosophers Do with “Deceptive” Intuition Pumps? Restrictionism vs Reformism, Philosophical Psychology

今後の展望
以上の研究成果に基づき、現在複数の論文を執筆・査読中である(一部はプレプリントとして公開済)。
 • “Wording Effects on Consent to DNAR” Yugo Maeda, Kiichi Inarimori, PsyArXiv  • “Philosophical Significance of Artificial Intuitions” Kiichi Inarimori, Masashi Takeshita, Arata Matsuda, Kengo Miyazono, PsyArXiv  • “Philosophical Expertise as the Acquisition of Intuitions: Insights from the Failure to Comprehend Determinism” Kiichi Inarimori, Yusuke Haruki, Arata Matsuda, Kengo Miyazono  • “Machine Experimental Philosophy” Arata Matsuda, Masashi Takeshita, Kiichi Inarimori, Ryosei Shimomichi  • “An Expressivist Account of Moral Responsibility” Kiichi Inarimori, Yugo Maeda, Kengo Miyazono



2025年9月
※現職:広島大学大学院人間社会科学研究科 研究員