成果報告
2023年度
死の害の欲求説の生命倫理・医療倫理への応用
- 滋賀医科大学医学部 学部生
- 佐々木 渉
研究の背景、目的と意義
本研究の目的は、分析哲学における死の害についての議論を医療倫理や生命倫理の諸問題に応用することである。分析哲学における死の哲学では、死が死の当人にとって害であるかどうか(悪いことかどうか)が主要な問題となっている。死が害であることは、一見すると自明に思われる。しかし、人は死ぬと存在しなくなるという見解を認める場合、「存在しない主体にとって、どのようにして死が害となりうるのか」という問題が生じる。なぜなら、私たちが日常的に「害」とみなすもの(例えば、「苦痛を感じること」や「知らないところで人に裏切られていること」)は、被る主体が存在するからこそ成立する害であるように思われるからである。
現代の死の哲学では、この問題に対して、さまざまな提案がなされている。特に「死が害であるのは、もし死なければありえたはずの良い人生が奪われるからだ」と考える「剝奪説」は広く受け入れられ、さまざまな領域に応用されている。一方で、議論の初期から存在する「欲求説」(生前説)は、死の当人が生前にもつ欲求に着目し、剝奪説とは異なる枠組みを提供してきたにもかかわらず、十分な評価を受けてこなかった。
本研究では、報告者が取り組んでいる一連の検討(すなわち、剝奪説の問題点や解決の限界の指摘、それに対する欲求説の理論的優位性の擁護)を土台として、その成果を活かしつつ、とりわけ医療倫理や生命倫理の場面における欲求説の応用を検討し、さらにその応用を通じて、従来の議論では見落とされてきた倫理的含意を明らかにすることを目指した。
研究成果と得られた知見
本研究の中心的成果の一つは、欲求説による害のアイデアの定式化と理論的整備を行ったことである。従来、この立場は単に「生前に主体がもっていた欲求が、死によって挫折することが害である」というように大まかに理解されてきたが、本研究ではこれを「ある人の死という具体的出来事が『その死の当人が生前に<充足されていない欲求>をもっていたということ』を真にする」という分析を行い、これにより、死の害は、生前の特定の時点での福利の水準の変化として記述できることが明確になった。またこれによって、剝奪説やその他の立場との理論的相違が明確になった。
さらに、死の害の理論が答えなければならないとされる「死はいつ悪いのか」という問題に対して、死んでいる状態に価値が帰属するかという論争を避けられない剝奪説の見解よりも説得的な応答を与えることができるということを示した。また、欲求をベースにした福利の理論が答えなければならないとされる「過去の欲求と矛盾する現在の欲求の充足をどう扱うべきか」という問題(変化する欲求の問題)に関しても、欲求が生じた時点と、その欲求が充足する時点の差異に着目することで、一貫した応答を与える方法を示すことができた。
また、こうした理論的整備を土台として、本研究は生前の欲求に基づく死の害の理論が、医療倫理・生命倫理の現場における重要な論点に対して応用可能であることを示した。
たとえば、積極的安楽死(VE)や医師による自殺幇助(PAS)においては、「その死が本人にとって利益となるかどうか」という問いが中心となるが、これに対して従来は、「死ななければ得られたはずの人生」と「現実の人生」を比較するという、剝奪説的な人生比較が当然視されてきた。しかしこの考えには、そもそも非存在との比較が意味を持つのかという形而上学的問題が付きまとっており、また、善行原則と組み合わせると非合理な帰結を生むという指摘もなされている。欲求説では、こうした反事実的比較によらず、実際に本人が生前にもっていた欲求の挫折という観点から死の害を評価することができる。これにより、理論的にはより堅牢でありながら、こうした問題においても、本人の意図や計画に基づいた倫理的評価を行う手がかりを与えることができるとともに、安易な肯定を回避することができる。このようにして、本研究は、死の害に関する理論的検討を通じて、医療倫理における「害」の概念を再検討するための有力な視座を提供した。
今後の課題と見通し
本研究の理論的成果は、今後、医療現場における事前指示とその撤回をめぐる倫理的判断に応用しうる。たとえば、ある患者が健康な時期に「延命治療は希望しない」と表明していたにもかかわらず、認知症の進行後には「治療を受けたい」と語るようになった場合、どちらの意思を尊重すべきかは容易には決められない。このような事例では、過去の欲求と現在の欲求のどちらが「その人の本当の利益」に関わるかを慎重に検討する必要がある。欲求説は、変化する欲求の問題への対処を通じて、こうした問題に解決の糸口を与えると期待できる。今後は、特に、どのような条件のもとで過去の欲求を優先すべきかをより明確にし、応用可能な判断枠組みを構築することを目標とする。
2025年5月
現職:山口大学時間学研究所 学術研究員




