成果報告
2023年度
「合理的」カルヴァン主義研究
- オックスフォード大学歴史学部 博士課程
- 李 東宣
2000年代以降、それまで「近代」を「世俗化」とみなしてきた政治・社会思想史分野の前提が問い直され、さまざまな方法と対象を通じて宗教を復権する研究が蓄積されてきた。にもかかわらず、世俗的な国家・権利・自由概念を軸とする思想史のナラティブに大きな変更はなく、「宗教が大事なのはわかるが、それで思想史理解の何が変わるのか」という疑問がしばしば投げかけられる。宗教が(初期近代以降の)思想史理解に資しないという考え方は、実はQ.スキナーの『近代政治思想の基礎』(1978年)の要旨でもある。当著作において「近代」とは、政治を語る上での重要概念が宗派の違いを超えて登場した時期であるとされており、たとえば自然法、抵抗権、国家といった概念にカトリックとプロテスタントの違いはなかった。『近代政治思想の基礎』に正面から対抗し、カトリックとプロテスタント思想の違いを論じた著作が2021年、S. モーティマーによって刊行されているが(Reformation, Resistance, and Reasonof State (1517-1625))、スキナーの著作およびこれを古典とする思想史研究に依拠する限り、現行のナラティブの抜本的な見直しは困難であろう。
本研究では、宗派の違いが思想面において明確な違いを生み出したというモーティマー等の立場に与する形で、グロティウス自然法論の同時代的インパクトを理解するためには宗派の違いを踏まえる必要があることを明らかにした。オランダの法学者フーゴー・グロティウスの自然法論は思想史・国際法・政治哲学等の分野で広く認知されてきているが、その重要性・新規性は近年大いに疑問に付され、2020年代に入ってからは特に、グロティウス自然法論は全く独創的ではなく、カトリック神学者に多くを負うとみなされている。確かに、純粋な哲学・倫理思想研究の観点からはグロティウスと彼に先行するカトリック・スコラ主義論者は連続している部分が大きいと言える。しかしグロティウスにおけるカトリックの知的遺産がかくも甚大なのであれば、なぜ17世紀のプロテスタント法学者たちはグロティウスを彼らの自然法史の「祖」として位置付けたのだろうか。本研究では、グロティウスがカトリック法学に多くを負いつつも、明確にプロテスタント的な変更を加え、プロテスタント圏では初めて体系的な法体系を提示したゆえに同時代のプロテスタント法学者に高く評価されたということを論証した。
グロティウス法体系のプロテスタント的革新性を理解する上で鍵となるのは、従来盛んに議論されてきた自然法概念だけでなく、自然法と実定法の区別であり、なかでも実定法の下位カテゴリーの一つである神定法divine positive lawである。グロティウス以前のプロテスタント圏において用いられていた法のカテゴリーは神法divine law、自然法natural law、人法human lawであるが、前二者は明確に区別されておらず、聖書に記された神の法が人間社会全体を縛る自然法でもあるという認識が一般的であった。他方グロティウス法体系においては、すべての法がまず自然法と実定法に分けられ、実定法の下位カテゴリーに(神法ではなく)神定法が置かれたことによって、自然法と神の法がまず明確に区別された。これに加えて、改革期プロテスタント教義である「聖書のみsola Scriptura」と、グロティウス生前のプロテスタント聖書解釈学の発展の影響を受けて、グロティウスの神定法は聖書に書かれた神の命令すべてを指すことになる。この神定法の導入によって、聖書は自然法の法源ではなくなり、人間界の普遍道徳(自然法)はキリストの教えや十戒から切り離された。ここに同時代のプロテスタント法学者らが絶賛した「近代」自然法学の誕生を見出すことができるが、この「近代」自然法概念は、世俗的精神などではなく、当時のプロテスタントの教義と聖書解釈学に端を発する神定法概念によって生まれたのである。
実際にグロティウス以降、自然法だけでなくこの神定法概念を巡ってプロテスタント圏全体で(少なくとも)18世紀末まで活発な議論が行われる。本研究は、申請時の題目にあるように当初カルヴァン主義者たちの「合理性」に着目したが、それがグロティウス法体系とその一部をなす自然法をめぐる議論であることに気がついた。従来、17世紀半ば以降のカルヴァン主義は、その人間理性への深い不信ゆえに、人間理性を評価する啓蒙思想の流れからは取り残された、いわば「時代遅れ」の思想とみなされてきた。しかし本研究は、プロテスタント宗派の一つであるカルヴァン主義も、「近代的」と評されるようなグロティウス法体系の影響下にあり、プロテスタント法学の枠組みの中で自然法や神定法にかんする活発な議論を行ったことを明らかにした。このようにグロティウス法体系のプロテスタント的新規性とその影響を捉えると、これまで描かれてきたプロテスタント法学の歴史が大きく書き替えられるだろう。
2025年5月
現職:東京都立大学大学教育センター 准教授




