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研究助成

成果報告

若手研究者による社会と文化に関する個人研究助成(サントリーフェローシップ)

2023年度

「失業消滅」下の中国における労働雇用管理のメカニズム―子女代替就業政策を中心に―

慶應義塾大学大学院法学研究科 後期博士課程
許 楽

 中華人民共和国は1958年に「失業の消滅」を宣言し、約20年間にわたって「失業のない」社会主義社会を維持した。しかし、膨大な人口を抱える中国において、実態としての失業や計画体制からはみ出る余剰人員は常に存在した。中国の政府と社会は、どのように実態としての失業と向き合い、就業という課題に対応したのか。本研究プロジェクトは、2022年度サントリーフェローシップの研究助成により遂行したプロジェクト「『失業消滅』の虚構をめぐる中国政治」に引き続き、「子女代替就業」という特殊な政策に焦点を当て、「失業消滅」を支えた現場のメカニズムを解明することを目的とする。
 「子女代替就業(中国語:頂替)」とは、親が退職する際に、同企業における親の雇用枠を継承する形で、一人の子女が同企業・単位に雇用される政策である。同政策は1960年代初期に全国的に実施され始め、文化大革命中に一度中止されたものの、1978年以降全国範囲で再開され、1986年の労働制度改革の中で廃止が決定された。一方、国有企業における職工子女の就職面での優遇は、1990年代以降も残存している。なぜ、中央政府の計画的労働管理の抜け穴となりえ、かつ温情主義的父権主義の現れとも批判される同政策が、計画経済を志向し、封建主義の克服を掲げる社会主義中国において、かくのごとき生命力を持ちえたのだろうか。本研究では、実態としての失業というリスクに対処する過程で、中央政府、地方政府、企業、労働者の間に、それを容認ないしは促進する共益関係が形成されたのではないかとの仮説を設定し、その実証を試みた。
 子女代替就業政策の実態を把握するために、助成期間においては、中央政府レベルから地方レベルまで、計画経済体制下の労働行政をめぐる档案資料(公文書)、政策史料、企業史料を日本内外で幅広く収集し、分析を行った。これらの資料を運用し、1960年代初期から1980年代にかけての子女代替就業政策の全体像とその変遷を明らかにした。そこから得られた知見は、以下の点にまとめられる。
 第一に、子女代替就業政策の実施過程の全体像を初めて明らかにした。従来の研究では、同政策は1960年代初期に導入され、文化大革命期に廃止されたものの、1978年に再び全国的に実施されたとされていた。しかし、档案資料の詳細な分析により、政策は文化大革命期にいったんは廃止の方向へ向かったものの、1970年代初頭から次第に復活していくさまが明らかになった。このように、従来の「78年画期説」では捉えきれない複雑な変遷を辿り、大躍進失敗後の経済困窮、文化大革命による社会混乱、知識青年の上山下郷(農村派遣)政策など、時代背景と密接に結びついた機能変化を遂げたことが判明した。
 第二に、「子女代替就業政策」をめぐる政治力学を通時的に描写し、その強靭性の原因を解明した。中国の計画経済体制において、子女代替就業は、労働者の定年退職・退職と若年労働者の就業を組み合わせることにより、編制定員を維持しながら、血縁関係に基づく安定的な労働力の更新を実現する現実的な方策であった。地方政府と企業は硬直的な労働雇用体制下での労働力更新手段の確保を求め、労働者は子女の都市部就業機会の獲得に期待を寄せた。すなわち、世代間の労働力流動ルートとも言える子女就業政策をめぐって、地方政府、企業、労働者との間に共益関係が形成された。そして、この強い共益関係に支えられていたからこそ、子女代替就業という雇用形態は、雇用慣習として定着し、政策として計画経済体制の中に組み込まれ、批判され、停止されてもなお、基層レベルにおいて強い生命力を持ちえたのだった。
 第三に、子女代替就業政策は計画的労働体制における矛盾を解決する重要な機能を果たしていたことが明らかになった。「失業消滅」下の中国において、同政策は基層レベルの労働力流動空間の一部として機能し、硬直的な計画労働体制を補完する役割を担った。各アクターの利益関係によって構築されたこの制度は、未熟かつ一貫性に欠ける計画的労働体制を補完すると同時に、労働者の不安を緩和し社会安定化に寄与した。この制度は単なる「世襲的雇用」ではなく、「一定の労働力の流動性を確保する、地方・基層レベルの自発的緩衝装置」として機能し、計画経済から市場経済への転換期においても、その機能を変化させながら存続したのである。同政策背後の政治力学に対する通時的な分析により、本研究は計画経済期と市場経済期を分断的に捉える従来の研究枠組みの克服を試みた。
 子女代替就業政策の分析から得られた知見は、より長期的な視点から社会主義中国における失業対策のあり方を分析する際に重要な視座を提供している。今後の課題として、博士論文においては、中華人民共和国成立前後から2000年代までを射程とする、より包括的な労働管理体制の変遷史を構築することを目指す。

 

2025年5月
※現職:慶應義塾大学法学研究科 助教(有期・研究奨励)