成果報告
2023年度
近世中後期の江戸歌舞伎における作劇法の研究
- 東京大学大学院人文社会系研究科 博士課程
- 古川 諒太
現在の歌舞伎で上演される古典歌舞伎は、役者の演技のみならず、扮装、道具などを含めた演出全体が、江戸時代から受け継がれてきた「型」という演技様式によって演じられる。しかしその伝承の過程では多くの型が廃絶しており、今日残っている型であっても、文献によって伝承過程が確かめられるのは幕末かせいぜい十九世紀以降である場合がほとんどで、古典歌舞伎の多くが初演された十八世紀の演出の実態は明らかになっていないことが多い。現行の型によって表現される演技や演出の核心を知るためにも、またそれらがどのように洗練されてきたのかを探るためにも、古典歌舞伎の演出の古態を立体的に把握することは重要な研究課題である。本研究はそのような課題意識に基づき、資料によって確かめられる十八世紀の歌舞伎の作劇法を分析することによって、当時の演出を明らかにしようとするものである。
本研究の主要な成果は主に二点である。一点目に、十八世紀前期から中期の、江戸の道外役に関する作劇法と演技法の変遷を明らかにした。江戸の道外役者である初代嵐音八の活動歴に注目し、その出演作の台帳や同時代評が残る演目を分析したことで、十八世紀前期に道外役の演技法に大きな転換があったことが判明した。十八世紀前期に、役者の技芸を花と実によって批評する芸論が発達し、それが芝居贔屓の観客の批評眼にも浸透してゆくにしたがって、道外役者も本来求められるはずの滑稽な演技ばかりではなく、劇中の展開に寄与する重要な役割を担うことも求められる機運が高まっていく。そうした中で多くの道外役者はその両立を実現できず、立役や敵役などに転向してしまう。初代嵐音八も一時期は同様の傾向にあるものの、当時の劇界を牽引していた二代目市川団十郎が晩年に確立しようとした佯狂の演技に影響を受け、十八世紀中期には観客を笑わせながらも同時に緊迫や悲哀を感じさせる演技法を確立し、道外役の役割を復権したことがわかった。またその二面的な演技は狂言作者が手掛けたせりふの、掛詞や修辞を巧みに用いた表現や構成に支えられており、江戸で近世中期に狂言作者が専業化したことも、そうした音八の演技の実現に大きく関与していることがわかった。二代目団十郎が演じた佯狂の演技は義太夫狂言に伝承されているが、音八がそれをさらに発展させた演技法は、音八の死後の歌舞伎には伝承されていないことから、このような歌舞伎の演技法は突出した才能を持つ役者の存在に大きく左右されることもあらためて明らかとなった。しかし音八が確立した演技は、近代以降の演劇や戯曲において注目されてきた「道化」の役割や意義にも通じるもので、十八世紀中期に江戸歌舞伎がそうした演技法をそなえていた可能性がある点で大いに注目される。また、音八は十八世紀前期の道外役者が得意としていた舞踊とせりふ芸を融合することで、十八世紀後期に流行する拍子舞と呼ばれる舞踊の演技様式の基礎を築いたことも判明した。初代嵐音八に関しては、従来、十八世紀前期の上方歌舞伎の演技法から影響を受けたであろうことが指摘されている。今後は音八を中心にして同時代の役者の演技法の変化を分析し、上方と江戸では演技法にどのような違いがあるのか、それらがどのように交流していたのかを明らかにする必要がある。
二点目は、作劇法ではなく演出そのものを直接的に伝える資料を発見し、分析したことである。当該資料は、十八世紀中期に江戸で初演された人気の歌舞伎舞踊を、人形浄瑠璃として上演した際に記されたと思われる舞踊の型付である。幕末頃まで型の伝承を遡ることができる歌舞伎舞踊の代表作「京鹿子娘道成寺」も収録されている点で貴重と言える。これまで歌舞伎の演目が人形浄瑠璃に摂取された例が知られているものはわずかである。この人形の型付を翻字し、その内容を分析したところ、比較的古い時代の振り付けを伝承していると推定されている歌舞伎舞踊の振りの様態と近似した点がいくつか見られ、その推定を裏付ける資料であることが判明した。また、十八世紀中期に初演された際には用いられていなかった演出で、十九世紀以後、現在まで広く行われている演出も記されており、十八世紀後期の過渡期の様態をも有していることも明らかになった。また人形の型付を記録した江戸時代の資料の存在は他に確認されていない点でも、演劇史上価値の高い資料だと言えるため、今後は実際に人形を用いた型の復元を通して、現行の人形の遣い方や歌舞伎舞踊の振りと比較検討する必要がある。また当該資料には阿波・淡路地方の方言と思われる語句が散見するため、現存する阿波人形浄瑠璃や淡路人形浄瑠璃の古態をも推定する手がかりになるのではないかと期待できる。
2025年5月
※現職:東京大学人文社会系研究科 助教



