成果報告
2023年度
平等主義的暴力の存在論:中央アフリカの(元)狩猟採集民トゥワのマルチモーダル人類学
- 立命館大学大学院先端総合学術研究科 一貫制博士課程
- ふくだ ぺろ
研究の動機、意義、目的
虐待、いじめ、テロ、戦争――暴力は現代では到底容認されない「悪」とされる一方、人類は古来より暴力に魅了されてきた。この矛盾をどう理解したらいいのだろうか。ピンカー『暴力の人類史』など近年暴力論は再燃しているが、その多くは啓蒙主義的枠組みから抜け出せず、暴力を「理性」に劣る「野蛮」として扱っている。一方で、酒井隆史『国家をもたぬよう社会は努めてきた』など国家外の枠組みから暴力を問う研究もあるが、暴力の政治的機能に議論が偏っているという課題がある。
本研究では国家とは異なる論理で生きる(元)狩猟採集民を対象に、暴力をまず人間の営みとして捉える視座をとる。社会を相互行為の積み重ねとして捉え、暴力の場における感情と身体に注目する。また、言語化しきれない暴力の側面を記述するために映像を用い、テクストと並行してマルチモーダルな知を構築する。こうしたマルチモーダル人類学の手法により、政治学的暴力論の限界を越えて暴力の存在論に迫るのが本研究の目的である。
研究成果や研究で得られた知見
本研究の調査対象はルワンダ共和国の北部、ビルンガ火山群の麓に居住するトゥワ(いわゆるピグミー系集団)の人々である。彼らは2000年以来、政府の環境保護・観光政策によって森を退去させられ、村落に定住している。しかし、例えば自分で畑を耕すよりも、畑をリースして即金を獲得するのを好み、農耕化しているとは言えない。しかし争い事を好まない典型的な狩猟採集社会と異なり、トゥワ社会では毎日喧嘩が起こり、10 日に1 度は流血沙汰にも至る。激しい暴力が横行しているとも言えるが、興味ぶかいのは、そうした暴力が支配や復讐の連鎖をもたらさず、平等とある種の平和が保たれていることである。
実際、闘争におけるジェンダー比は対等であり、もっとも好戦的なのは中年女性である。またトゥワの闘争は感染力が強く、その熱がコミュニティに拡散するが、全員が一斉に闘争に身を投じたり、派閥に分かれて闘争がエスカレートすることはない。一人のトゥワの「怒り」の実践である闘争は、他のトゥワの闘争を呼び込むこともあれば、おしゃべりや無関心、場合によっては「幸せ」の実践である音楽を呼び込む。感情と身体が相即的に形成される「感情=身体」群が入り乱れ、交渉し合い、転移し、変遷していくうちに夜が更け、朝にもなればまた新しい一日が始まる。こうした異なった身体群が入り乱れ、あらゆる感情と身体が形成されていく現象を私は「ポリエモーション=ボディ」と呼んでいる。そして、この自他の区別が融解されていく自由にこそ、トゥワの平等性の中核があると考える。
先述した「自由」は彼らの音楽や罵り合いにも顕著である。音楽構造としては彼らの音楽はポリフォニー、ポリリズム、6/8拍子といったような特徴も持つが、気ままにリズムやフレーズを挿入してグルーヴで遊ぶ自在さがトゥワの音楽の核である。罵倒で言えば、罵りには歌うような発声や踊るような身体所作を伴い、音楽の「感情=身体」に近接し、他者を呼び込んでいく共振的な快楽がある。つまりトゥワの罵りは怒り、悲しむ「感情=身体」を引き出しながら、それとは異なる、喜ぶ「感情=身体」の要素をも併せ持ち、音楽と闘争を繋ぐ「感情=身体」だと考えられる。
結論を述べれば、闘争、ミュージッキング、罵り合い、おしゃべりなど複数の「感情=身体」実践が入り乱れ、繋がっているトゥワの生においては、暴力=悪/平和=善に代表される二項対立は無効である。トゥワにとっての「平和」とは「死」の不在であり、感情と身体の自由な表現が尊重される状態である。暴力を否定せず、死に至らない衝突を許容することで、支配や抑圧に転化しない暴力が実現している。平等とは比較と計量の結果ではなく、相応の暴力を許容する自他未分の未決定性の中でこそ生まれるのであり、暴力と平等、平和は連続した運動として理解しなければいけない。
そしてこのような暴力論に至るため、私は『DOG SHIT FOOD』、『Read Letters and Asynchronous Perspectives』と言う短編映像2本と長編映像『BATWA』を博士論文の一部として提出した。テクスト知とマルチモーダル知は必ずしも互いを補完せず、むしろ衝突し、終わりなき運動を生む。この非収斂性こそがメディアの多様化著しい21世紀における新しい学知のあり方である。本研究のテーマである暴力に結びつけて言うのならば、理性的言語の権力を相対化しながら決して固定化されず、不断に運動し続けることで、より多感覚的で均衡の取れた知のありようを追究する「平等主義的暴力」が本研究である。
今後の課題・見通し
暴力は誰の中にも存在しており、排除することはできない。問題は暴力そのものではなく、それを生み出す「感情=身体」と社会構造にある。現代社会が抱える支配と競争のベクトルが「感情=身体」と相互作用し、「万人の万人に対する支配」とでも言うべき社会を生む。トゥワに倣い、怒りと幸福、悲しみが交差するポリエモーション=ボディの中に「心を失う」ことで、私たちは暴力を自らのものとして引き受け、暴力を社会の周縁へと隔離・隠蔽することなく、より良い「平和」を生きていけるのではないだろうか。こうした現代的な課題にも提言していくため、今後は国家的・構造的暴力と平等主義的暴力のダイナミックな関係について考察し、より包括的な暴力論を構築していきたい。
2025年5月
※現職:日本学術振興会特別研究員PD(受入機関:京都大学アジア・アフリカ地域研究研究科)



