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研究助成

成果報告

若手研究者による社会と文化に関する個人研究助成(鳥井フェローシップ)

2023年度

政治危機のあとに残るもの:国家安全維持法施行後の香港におけるポピュラーカルチャー復興

東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所 ジュニア・フェロー
小栗 宏太

 本研究助成のもと、国際的な注目を集める近年の香港の政治情勢について、消費や娯楽などのポピュラー文化の観点から取り上げる研究を行なった。ポピュラー文化に注目した理由は、主に二つある。
 第一の理由は、香港の「文化」と「政治」をめぐるイメージのギャップにある。かつては香港といえば、日本においても、まさに「買い物天国」、「エンタメの都」など、まさに消費や娯楽を通じて捉えられていた時期もある。一方で、1997年の中国への返還以降は、徐々に香港の政治動向が学者やジャーナリストの注目を集めるようになり、その背景を解説する記事や研究論文、研究書も多く出版された。買い物天国、娯楽都市として知られた香港は、どのようにして政治問題が顕在化する「デモの都」へと変貌を遂げたのか。そうした変貌の中で、香港の文化はどこへ行ったのか。「政治化」が進む香港における文化の立ち位置を探ること、これが本研究の第一の目標であった。
 第二の理由は、2020年の「国家安全維持法」制定後の香港の変化にある。広範な反体制的言動を取り締まる同法により、香港における政治的議論のあり方は大きく変わった。同法の制定後は、民主派団体や反体制的メディアの解散・活動停止も相次いでいる。選挙制度も改定され、立候補審査の厳格化などにより、反体制的な政治家は立候補が難しくなった。また世論調査機関も捜査の対象になるなど、学術的研究も影響を受けている。つまり反体制的言論や投票行動/世論調査の結果など、旧来香港の政治情勢を観察するのに用いられてきたツールが、同法の制定後、急速に利用不可能になっている。そこで、ある種の残されたオルタナティヴな議論の空間として、政治活動からは離れたポピュラー文化の領域に着目すること、それが本研究の第二の目標であった。
 こうした目標のもとに、助成期間の前半には2023年3月に東京外国語大学に提出した博士論文を大幅に改稿した単著の執筆・出版準備を進めた。同書は2024年8月に『香港残響:危機の時代のポピュラー文化』として東京外国語大学出版会より刊行された。2019年の逃亡犯条例改正問題に端を発する抗議運動と、後の国家安全維持法の制定後の情勢について、ポピュラー音楽、商業施設、嗜好品などのメディア文化、消費文化との関わりから分析し、主に以下の2つの結論を提示した。

 (1)2010年代以降の香港の政治運動には、直接に大文字の政治問題(民主化や国家統合に関する議題)とは関わりのない、娯楽や消費などをめぐる日常的な問題・摩擦も影響を与えていたこと。つまり返還以前から香港の特徴であった消費文化・娯楽文化は、香港社会の政治化が進みつつある時代にも、市民の関心を集め続けていたこと。

 (2)2020年の国家安全維持法制定後、娯楽の領域が急速に商業的な復興を遂げていること。この時期にヒットした作品の中には、間接的に社会情勢を仄めかすような作品も見られること。一方で政権の側も、そのような、旧来の明示的な反体制運動とは異なる、間接的な不満の表明を「軟對抗」とよび、警戒を強めていること。

 両者はそれぞれ本研究の第1、第2の目標に対応する研究結果である。同書は博士論文執筆中のデータを主に用いたものだが、書き下ろしとなる第5章では本助成金を用いたイギリス、台湾での調査結果を部分的に反映することができた。
 同書の脱稿後は、それぞれ第1、第2の目標に対応する更なる研究として、(a)日本における香港文化受容に関する研究、(b)2010年代以降の香港広東語ラップの研究、の2種類の研究を進めた。
 (a)としては、香港の芸能が日本でとりわけ注目を集めた1990年代の「アジアン・ポップス」ブーム期の刊行物を収集・分析し、このブームがいかに生起し、そして消失していったのかについて分析した。その成果は2024年12月に立教大学で、台湾中央研究院などとの共催のもと開かれた国際シンポジウム「新しい情勢の下でのグローバルな香港研究」で発表したほか、国際誌への英語論文の投稿も準備している。
 折しも助成期間の終了間際、2025年1月から日本で公開された香港映画『トワイライト・ウォリアーズ 決戦!九龍城砦』のヒットにより、香港文化が日本で再び大きな注目を集めている。日本における香港文化受容を検討するこの研究については、今後、学術的な形式での発表はもちろん、広く一般社会にその成果を還元することも目指したい。
 (b)については、基礎的な情報収集を開始し、既存の非西欧のヒップホップに関する研究動向を参照しながら、予備的な考察を進めている。その成果は国立民族学博物館の「辺境ヒップホップ研究会」で発表したほか、同館関連団体の発行する『季刊民族学』のヒップホップ特集号(2025年4月)にも短いエッセイとして寄稿した。2025年度中に学会発表も予定している。

 

2025年5月