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研究助成

成果報告

若手研究者のためのチャレンジ研究助成

2019年度

「長い13世紀」のヨーロッパの音楽文化に見る創作性

東京藝術大学大学院音楽研究科 博士後期課程
井上 果歩

 13世紀はヨーロッパの音楽文化が大きな変化を迎えた時期である。一つはポリフォニー(多声音楽)の隆盛である。ポリフォニー自体は9世紀後半にはすでに存在していたが、13世紀半ばの理論書によると、この時期のポリフォニーにはそれ以前の音楽にはなかった複雑なリズム構造・声部間の音程の規則が存在する。このようなポリフォニーは12世紀後半頃からすでにパリのノートル・ダム大聖堂を中心に演奏され、14世紀前半まで伝承されていた。マーク・エヴェリストは、この12世紀後半~14世紀前半を「長い13世紀」と呼び、西洋音楽史上の転換期であると強調する。そして、ノートル・ダム・ポリフォニーとも呼ばれるこの長い13世紀のポリフォニーは、フランスだけでなく、ブリテン島やイタリア、ドイツなどで成立した写本にも多く残っている。つまり、長い13世紀の音楽文化はパリを中心としつつも、知識層の共通語であったラテン語を介してヨーロッパ各地に伝播し、共有されていたのである。
 さらに、長い13世紀に数多くの世俗歌曲が演奏されたことも見逃してはならない。ヨーロッパの世俗音楽に関する記録は、長い13世紀以前にはほとんど見られないが、12世紀より単旋律の世俗歌曲であるトルバドゥール(オック語)やミンネザング(中高ドイツ語)は宮廷を中心に花開き、また単旋律のラテン語の世俗歌曲や、中世英語やオック語のポリフォニーも散見される。
 以上のように、長い13世紀の音楽は様々な言語で歌われ、聖俗問わず種々のレパートリーが互いに影響し合いながら共存していた。では、なぜこの時期にかつてない活気をもって多種多様な音楽が創作されたのか。創作の原動力はどこにあったのか。本研究の目的は、長い13世紀の音楽文化が持つ創作性に注目し、これがどのような学問・思想、社会的背景によってもたらされたのかを解明することにある。
 本研究の独創的な点は、長い13世紀の音楽文化を上記のような様々な学問文化の「交差点」と捉え、その活力、創作性、インスピレーションの源を、音楽そのもののみならず、詩学、言語学、哲学などあらゆる要素に見出すことにある。そして、本研究の学術的意義は、西洋音楽史の転換期としての長い13世紀という概念を周知させること、さらに、より一般的なレヴェルでは、ヨーロッパの音楽といえばバロック時代以降のクラシック音楽のイメージが強いため、それ以前のヨーロッパ音楽の諸相を多くの人に知ってもらうことにある。
 本研究を通して見えてきたのは、まず、「書く」という行為が長い13世紀の音楽文化の創作性を支えていた可能性である。史学の諸先行研究によれば、12世紀以前は主に写本は修道院で製作されていたが、12世紀前後よりヨーロッパの都市部を中心に民間の工房も写本を生産するようになった。これは長い13世紀の音楽の写本、特に楽譜写本にも当てはまり、例えば、I-Fl Plut. 29.1写本やGB-Lbl Egerton 2615写本は1250年頃にパリのヨハネス・グリュシュの工房で製作された(Bevilacqua et al. 2018)。換言すれば、この時代に楽譜を書くこと、すなわち記譜を専門とした人々が誕生したのである。そして本研究では新たに、上記の写本が当時の他の音楽関連写本と比べて、記譜の誤記が少なく、精緻に書かれていることを明らかにした。つまり楽譜は、長い13世紀において専門的知見と細心の注意でもって書かれ、視覚の美として体現される対象となったのである。これは、記譜が音楽文化において重要な役割を持ち始めたこと、さらには音楽創作の一プロセスとして捉えられていた可能性をも示唆する。
 長い13世紀の音楽文化の創作性を支えていたもう一つの大きな要素は、音楽と詩の関係性であろう。当時、多くの音楽家は同時に詩人で、現代で言うところのシンガーソングライターであった。では、長い13世紀において音楽と詩はさぞ密接な関係にあったかと思えば、大変興味深いことに、楽曲分析を通して見えてきたのは、レパートリーを問わず、旋律の動きやリズムが詩の内容や韻律を反映させている例はほぼ皆無であった、という点である。さらに、旋律のリフレインと詩のリフレインの位置がずれている楽曲もしばしば見られた。つまり、音楽と詩は互いに独立している傾向にあるが、ここから見えてくるのは、既存の音楽に新たな詩を加えるのが容易になるという利点である。事実、この時代、替え歌の創作が活発になり、一つの旋律が聖俗や言語の垣根を超えて広く共有された。このように音楽と詩がある程度互いに独立していることが、長い13世紀の音楽創作の原動力になったのではないだろうか。
 最後に、今後の見通しとしては、当初の予定では歌手と協力して研究課題で扱った楽曲の演奏のワークショップを行うはずだったが、新型コロナウイルス感染拡大により叶わなかった。そのため、来年以降にワークショップを再企画し、安全な環境のもと、研究者と一般市民両方に向けた本研究の成果発表の機会を設けたい。

 

2021年5月

現職:サウサンプトン大学 博士研究員

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