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研究助成

成果報告

2018年度

なぜ特定の政策は形成されないのか――医療費適正化をめぐる改革案のサバイバル分析

医療経済研究機構 協力研究員
三谷 宗一郎

1.背景と目的
 周知の通り、毎年一兆円規模で医療費が増加する日本において、医療費適正化は重要な政策課題である。現在、強力に推進される医療費適正化政策は、1980年代に実現した一連の制度改革を起点とするが、それらの改革を実質的に主導したのは当時の厚生官僚だった。当時、法案作成の担当者らは着任後、短期間で有望な改革案をリストアップしていったが、彼らの多くが医療保険政策に必ずしも精通していたわけではなかったことは興味深い。2~3年で異動するジェネラリストの彼らは、なぜ迅速に改革案を準備し得たのだろうか。
 1950年代から70年代までに厚生省内部で作成された複数の内部文書を入手・精査した結果、80年代に実現する改革案の多くは50年代から歴代の政策担当者によって繰り返し検討されていたこと、そしてその一方で、準備されてきた改革案のいくつかが、ある時期を境に検討されなくなり、政策として結実しなかったことがわかった。このことは厚生省内部には中長期的に政策を形成するメカニズムが存在しており、そこには非形成をもたらすメカニズムも内在化されている可能性を示唆していると考えられる。
 そこで本研究は、1980年代において厚生官僚はどのように改革案を準備したのか、そして、準備していた改革案のいくつかが政策として結実しなかったのはなぜか、という問いに対して、歴代の政策担当者による組織学習に着目しながら説明を提示することを目的とする。


2.分析枠組と検証方法
 すでに政治学、行政学、公共政策学研究では、中長期的な政策の形成・非形成に関する種々の有益な分析枠組が提起されているが、組織内部で生産された情報の生産、蓄積、継承、再利用、消失という現象を説明するにはいくつかの疑問が残る。そこで主として経営学で発展してきた組織学習論のうち、①組織知が保有される場所に関するリポジトリ概念(organizational repositories)、②リポジトリに蓄積された組織知の再利用過程(knowledge reuse)に関するナレッジ・リユース研究、そして③組織知の消失に関する組織忘却研究(organizational forgetting / institutional amnesia)を援用し、分析枠組を構築した。並行して内部文書を含む史資料調査と25名の元厚生官僚へのオーラル・ヒストリーによって得られた新史料に依拠した過程追跡を行ない検証した。


3.研究結果
 研究の結果、(1)1980年代以降に実現する改革案のほとんどは、古くは1950年代から検討が開始されていたこと、(2)過去に検討された改革案は、構想に携わった政策担当者個人、内部文書、公表文書、言説、外的アクターの各リポジトリに保有されてきたこと、(3)歴代の政策担当者がそれらの各リポジトリに必要に応じてアクセスしながら、保有された改革案を繰り返し検討し、実現可能性を高めていたことが明らかになった。以上から1980年代前半の制度改革を牽引した政策担当者は、全くのゼロベースから改革案を構想していたわけではなく、着任した時点ですでに過去の検討蓄積を利用できる状態だったため、迅速に改革案を準備できたと考えられる。
 一方で、(4)実現が困難と結論付けられた改革案については、以後、検討対象から除外された事実もリポジトリに保有され、継承されていたこと、(5)1980年代後半以後の政策担当者は、リポジトリにアクセスして改革案を探索する必要性に迫られなかったため、特定の改革案に関する過去の検討蓄積が継承されていないこともわかった。その結果、当該改革案の導入に必要な法規定が1994年に削除される、という帰結に至っていたことがわかった。
 いつ改革の機運が高まるか予測することはほぼ不可能であり、政策担当者が事前に多数の代替的選択肢を保持しておくことは極めて重要である。厚生省では従来、非公表の内部文書は、多岐にわたる論点と改革案がまとめられた特に有益なリポジトリとして機能しており、実は、一部の政策担当者がリポジトリの構築と継承に意識的に取り組んでいたからこそ、組織学習を通じた迅速な政策形成が可能だったと考えられる。
 もっとも本研究の結果のうち、厚生省内部において過去の検討蓄積という組織の貴重なリソースが消失していたことは今後の政策形成の在り方を考える上で興味深い。近年、多くの行政組織では、政治的リスクの回避や多忙による時間的余裕のなさから文書が作成されない傾向がみられており、また、せっかく作られた文書も部局の再編に伴って散逸し、どこに重要な文書が保存されているか誰も把握できない状態も生じている。実際、調査を進める中で、表紙に「厚生省保険局医療課からの持ち出し厳禁」と記された文書が厚生労働省外部の資料室で見つかったこともあった。
 これまで行政組織における公文書管理をめぐる議論の多くは、歴史的意義や民主主義の検証可能性の重要性を前面に掲げてきたが、近年、「即時公開されることは二の次の問題であり、長く保存されることこそが重要」と指摘する議論も出てきている。政策形成の向上を念頭に置いて組織内部に蓄積されるリソースの管理・活用という観点からも公文書管理の充実化を議論する必要があるのではないだろうか。


4.今後の課題
 第一は、本研究の分析枠組を用いることで2000年代以後の政策過程についてどのような説明を提示できるか検討することである。本研究は1980年代から1990年代前半までを射程としてきたが、それ以後についてはさらなる調査が必要である。第二は、組織学習の断絶に関する定量的な検証である。助成期間では史資料調査やオーラル・ヒストリーを実施し、組織学習論を援用した分析枠組の根本的な再構築を進めてきたため、引き続き、断絶メカニズムの解明に取り組みたい。


2020年5月 ※現職:医療経済研究機構 研究員

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