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研究助成

成果報告

人文科学、社会科学に関する学際的グループ研究助成

2016年度

『大阪時事新報』から見る「関西ジャーナリズム」史の再考

大阪芸術大学短期大学部メディア・芸術学科 教授
松尾 理也

①研究の進捗状況

本研究は、これまで『朝日』『毎日』という二大全国紙の視点から語られることが多かった関西の新聞史を、消えていった新聞の視点、いわば敗者の視点から捉え直すことを目的としている。具体的には1908(明治38)年に創刊され、1942(昭和17)年に大阪の新聞統合の完成とともに廃刊となり、戦後一時期復刊されたもののまもなく消えていった大阪時事新報という「忘れられた新聞」を題材に、関西メディア史の裏側を検討した。

2016年度に開かれた4回の研究会では、研究代表者と共同研究者の計5名を中心に、さらに外部研究者を招聘しそれぞれの視点から報告をいただくとともに、史料や文献を読み込み、研究成果について随時検討を行ってきた。また、「メディア政治史研究会」(代表・佐藤卓己京都大学大学院教授)など外部の研究プロジェクトとも連携し、隣接した研究テーマから得られる異なった視点の導入に努めた。

②研究で得られた知見

今年度の研究は主に昭和戦前期から占領期までを対象にした。明らかになった知見として、主に次の2点が挙げられる。

まずひとつは、満州事変を契機に全体的に新聞の論調が軍部寄りに変化したあとも「自由主義の残滓を残した」全国紙に対して引き続き権力側から厳しい視線が向けられていた中で、『大阪時事新報』はむしろ当局に先んじるかたちで急激な国民主義化、全体主義化を遂げていたという事実である。福澤諭吉が創刊し、「独立不羈」を旗印に中道を行った『時事新報』が大阪に進出して生まれたという経緯から、大阪時事はこれまで、上品でインテリ層向け、ブルジョワ色の強い新聞だと考えられてきた。それは大筋では間違っていないものの、昭和戦前期の紙面を検討したところでは、実際には国粋主義団体の明倫会、戦後A級戦犯に指名された評論家の池崎忠孝、元「天声人語」筆者で朝日新聞を飛び出した軍事評論家の武藤貞一など国民主義的な論客や勢力が出入りし、紙面的には知識人層や富裕層、既得権層への攻撃的な姿勢が強まるなど特徴的な変化を遂げていた。

経営難から紙面が迷走する事態は珍しくないが、『大阪時事新報』がその後、単に消滅するのではなく、全国紙発祥の地大阪での新聞統合で最後まで残り、昭和17年に『夕刊大阪』と合併し『大阪新聞』として大阪の新聞界の「第3極」を形成したという事実に照らし合わせると、この変化は興味深い。大阪における新聞統合のプロセスをみても、権力側は明らかに、「言論報国の翼賛紙」ともいうべき存在に変貌した『大阪時事新報』に肩入れしていた。

こうした経緯をさらに詳細に解き明かすことで、戦時統制下でのメディアと権力の関係にかんするこれまでの見方に、新たな視点を付け加えることができると考える。それは、メディア自らが生存のためにドラマチックな論調を構築するプロセスであり、現代のポピュリズム形成のメカニズム解明にも示唆するところがあると思われる。

もうひとつは、「第3極」が形成される過程で、前田久吉という人物が果たしたユニークな役割である。前田は昭和17年に『大阪時事新報』と合併した『夕刊大阪』の経営者であり、現在の『産経新聞』の創業者として知られるが、戦後新聞経営から去ったこともあって、今ではほとんど顧みられない存在である。

だが戦後の関西メディアは「朝毎」だけに規定されてきたわけではない。前田は営利追求を至上課題とする資本主義的側面が強いが、その前田と共同体主義的な『大阪時事新報』という一見奇妙な組み合わせが、全国紙お膝元における「第3極」の実体であった。そしてその影響は、単に前田が関与した一群のメディアにとどまらず、戦後の「関西ジャーナリズム」のあり方そのものに及んだと考えている。

③今後の課題

以上の2点を含み、今後さらに『大阪時事新報』の事跡をメディア史的に探究するなかで、現在その行き詰まりが指摘されてもいる「関西ジャーナリズム」を再考する一助となることを目指したい。具体的には、2018年度に「マス・コミュニケーション研究」(日本マス・コミュニケーション学会)等の学術誌への投稿、掲載をめざすほか、各種論文の形にまとめ、最終的には論文集としての刊行を検討したい。

2017年8月


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