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研究助成

成果報告

2008年度

新発見「豊臣期大坂図屏風」の魅力
― オーストリア・グラーツの古城エッゲンベルク城と日本の間

関西大学なにわ・大阪文化遺産学研究センターセンター長
髙橋 隆博

 本研究の対象である「豊臣期大坂図屏風」(オーストリア・エッゲンベルク城博物館蔵)は、現存例の少ない豊臣期の大坂を描いた屏風絵として、また日本からヨーロッパへ渡った屏風の希少な事例として、歴史的・美術史的にきわめて高い価値を持つ作品である。この間の研究では、屏風に描かれた絵画情報の解読と、屏風を通じた日欧関係の解明を目的としてきた。
 
 第1の課題である屏風の解読については、以下の諸点が議論された。(1)本屏風は、大坂城を北から描く点に構図上の特徴があり、廊下橋形式の極楽橋とあわせ、北側を大坂城の表玄関として描く意図を見てとれる。(2)画風は島根県立美術館本・林原美術館本・サントリー美術館本等の「洛中洛外図屏風」との類似が指摘され、同じ流派の絵師あるいは工房の作品であると考えられる。この流派の作品はこれまで「洛中洛外図屏風」に限られており、その他の画題を扱ったものとしては「豊臣期大坂図屏風」が唯一の作例となる。(3)また類似する「洛中洛外図屏風」との比較検討から、「豊臣期大坂図屏風」の制作年代は17世紀中頃であろうと考えられる。(4)屏風を秀吉物語として読む試みも引き続き行なわれ、画中に秀吉追善の意図を読み取る可能性が提示された。

 
 

 第2の課題である日本からオーストリア・グラーツにいたる経路と、現地での屏風の利活用については、以下の諸点が議論された。(1)グラーツでの調査により、「豊臣期大坂図屏風」はエッゲンベルク侯3代目のヨハン・ザイフェルトが購入し、その時期は1665年から1679年までの間であることが確認された。(2)屏風が現在見られるように8枚のパネルに分割され、エッゲンベルク城「日本の間」に飾られることになったのは、ヨハン・ザイフェルトの孫娘マリア・エレオノラがエッゲンベルク城をロココ調に改装した18世紀中頃のことと考えられる。(3)ヨハン・ザイフェルトが本屏風を購入した時期から推測すると、日本からオーストリアへ屏風が渡ったルートはオランダ・東インド会社経由である可能性が高い。17世紀の長崎オランダ商館長日記や、日蘭貿易船の積載品に関する送り状を精査した結果、屏風が交易品として輸出されたいくつかの事例を見出すことができた。(4)「豊臣期大坂図屏風」に使われていた裏張り文書類を調査したところ、木綿と思われる布が裏張りに用いられていた【図1】。こうした手法は日本ではほとんどみられず、この屏風が8枚のパネルに分割され「日本の間」壁面に嵌めこまれた際の補修であると思われる。また裏張りの中に聖母子像をデザインした印刷物が数点含まれていたことからも、「豊臣期大坂図屏風」がグラーツに渡ったのちに現地でメンテナンスされてきたことを窺うことができる【図2】。こうした現地での補修が、この屏風が制作から約350年の年月を経てなお、これほど良好に保管されてきた理由の一つであると考えられる。
 
 2009年は日本・オーストリアの国交140周年にあたり、「豊臣期大坂図屏風」を仲立ちとして大阪城天守閣とエッゲンベルク城博物館の間に友好城郭協定が締結される予定となっている。大阪市とグラーツ市との間で定期的な交流が持たれることにより、日欧交流に関する学術研究の活発化が期待できる。その際にも、「豊臣期大坂図屏風」は中心的存在となるであろうことが予測される。
 
2009年9月
(敬称略)

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