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研究助成

成果報告

2008年度

開発と環境劣化:ベトナム、ラオス、カンボジアにおける地域主導の対策

慶應義塾大学総合政策学部教授
梅垣 理郎

 2006年の調査に基づく世界銀行の推計によると、ベトナムにおいて農薬などに起因する疾患対策、産物の農薬汚染にもとづく市場でのロスなどの総計は700億ドルに上るとされ、農作物輸出額の20%近くに上った。すなわち「wealth」の追求は「health」を蝕み、その蝕まれた「health」が転じて、「wealth」自身をも侵食しているのである。農業部門に多く依存する多くの開発途上地域が避けては通れない政策課題である。
 本研究はこの状況をベトナムとラオスを対象とした調査を進めている。この二つの社会を観察対象とした理由の中でも特に重要なのは以下の点である。両国ともほぼ同じころ、市場経済への移行を開始し、その一環として、土地の実質的私有化を開始した。土地の私有化が、農民の間に利潤追求を促進させ、アグロケミカルなど生産財の消費を飛躍的な拡大の一端を担っているのである。同時に、両国ともWHOなど国際機関やASEANなど地域組織による規制を多く受けるようになってきている。したがって、両国ともアグロケミカルをめぐるマクロポリシーの整備は各種法規制の中でも比較的進んでいる方である。
 本研究において殊に問題としたのは、マクロポリシーの地域レベルでの効果である。(*ベトナムについては特殊ベトナム的な事情を考慮した。すなわち、戦時中、米軍が大量に撒布した枯葉剤の生態系および人体への世代を超える被害とその情報の共有が、アグロケミカルの使用にたいして抑止効果を生み出しているか、という疑問である。)
 初年度の地域調査の結果、以下のような観察が可能であった。まず、中央政府レベルで促進されるアグロケミカルの規制を地域レベルで実践に移す制度環境(監視、予防、履行違反の摘発、疾患の特定など)が整備されていない。このため、アグロケミカルに対する予防・対処は農民個人の裁量にゆだねられてしまっている。しかし容器などに記された「使用方法」を遵守する以上の工夫はほとんど見られない。さらに、ケミカル使用の累積的な効果などについてはほとんど注意が払われていない。多大な被害を生み出している、あるいは生み出す可能性が高いにもかかわらず、生産性向上という目標の下、アグロケミカル濫用に対する予防の責務の過半は個人に帰属しているのである。
 次に、ケミカルに対する警戒心は濃淡の違いはあれ、多くの農民の間に広まっている。ここから二つの疑問が生まれた。まず、警戒心の濃淡を生み出す要因は何か。そして、警戒心にもかかわらず、ケミカルを使用し続ける理由は何か。前者についてはケミカルをめぐる情報のコストの高低――マスメディア、医療機関の啓蒙運動の普及など――が大きく働いていることが明らかとなっている。(枯葉剤被害の抑止効果をベトナム南部の農民の行動から確認することはできなかった。)後者については、ケミカル使用のプラスとマイナスの帰結が前者は認識しやすく、後者がそれと認識しにくいことが要因となっている。収穫、したがって収入、の上昇という明らかなプラス「効果」に比べ、ケミカルの濫用に起因する疾患は因果関係が特定しにくい。しかも、症状そのものがその初期においては頭痛、下痢など通常の疾患に比べて特に目を引くものではない。こうしたことが、使用に対する自制効果を生み出しにくくしているのである。
 もう一つ軽視できないのは、ケミカルを使用しない農民の存在である。所有農地の大小にかかわらず、化学肥料以外に触れたことのない農家の数は少なくない。アグロケミカルへの依存の深化要因と同時に、使用抑制の要因も更なる調査を必要とする課題として浮かび上がっている。
 以上の観察を整理しつつ、ケミカルをめぐる農民の消費行動の理解を深めるため、本研究の初年度末期からは、いくつかの要因を調査に加え、2年度目の課題とした。
 一つは商品作物化が生み出す効果への注目である。過渡期の農業セクターでは、生産物の世帯内消費から、商品化(近隣、国内、国際市場)へと移行してゆく。この移行とケミカル使用の相関関係を明らかにする必要がある。具体的には、大手アグロビジネスの「契約農家」と独立農家の行動を比較しつつ調査を進める。また、平行して、地域医療機関の「啓蒙」効果の高低についても注目したい。アグロケミカルの使用に対する農民の合理的な判断を促進する上で、特定疾患の因果関係を熟知する医療機関の役割の実態調査を進める。

2009年8月
(敬称略)

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