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サントリー学芸賞

受賞のことば

社会・風俗2020年受賞

伊藤 亜紗(いとう あさ)

『記憶する体』を中心として

(春秋社)

1979年生まれ。
東京大学大学院人文社会系研究科基礎文化研究美学芸術学専門分野博士課程単位取得退学。博士(文学)。
日本学術振興会特別研究員(RPD)、東京工業大学リベラルアーツセンター准教授を経て、現在、東京工業大学リベラルアーツ研究教育院准教授、同大学科学技術創成研究院未来の人類研究センター准教授。
著書 『ヴァレリーの芸術哲学、あるいは身体の解剖』(水声社)、『目の見えないアスリートの身体論』(潮出版社)、『どもる体』(医学書院)、『手の倫理』(講談社)など。

『記憶する体』を中心として

 新型コロナウイルスの感染が拡大し始めた頃、私は軽い失語症のような状態に陥っていた。メディアやネットでこの正体不明のウイルスについてさまざまなことが言われていたが、その「新事実」も次の日には誤りであったことが明らかになり、くつがえされてしまう。まるで、言葉が種として撒かれても根をはらず、わずかな風ですぐにどこかに飛んでいってしまう、そんな不毛な土地に投げ出されたような気分でいた。とても自分から言葉を発する気にはなれなかった。
 そんな無力感から私を救ってくれたのは、研究を通じて知り合った知人たちとの、オンライン飲み会だった。彼らは目が見えなかったり、難病だったり、外出ができなかったり、さまざまな特性を抱えた人たちだったが、危機の中で聞く彼らの言葉は、とてつもなく力強いものに感じられた。それはいたずらに鼓舞するような強さではなかった。私たちの目を覚まさせ、現実に引き戻してくれるような、血の通った、確かな強さだった。あぶくのような情報に流され、身動きがとれなくなっていた自分を、恥ずかしく思った。
 彼らの言葉がそれほどまでに力強かったのは、それが、体というままならない存在と付き合うなかで、長い時間をかけて醸成されたものだったからだろう。私はこれまで、さまざまな障害や病を持つ人に話をうかがいながら、彼らがどのように世界を認識し、その体をどのようにして使いこなしているのかを研究してきた。今回のコロナ禍において、そしてコロナ禍がいっそうあらわにした自己責任論の風潮や社会的な分断のなかで、私は改めて、体から生まれる言葉が持つ力について思い知らされた。
 そもそも、体は自分で選んだものではない。私がこのような顔、身長、性別、特性、体質、能力を持って生まれてきたのは、まったくの偶然であり、そこには何の責任もない。けれども人は、この与えられてしまった条件を引き受け、それを必然化して生きていく以外にない。そして最後には、どんなに生きたいと思っても、体が自己を追い越すようにして死が訪れる。
 人は社会の中に存在するが、体は人間の思いをはるかに超えて、自然を包み込んでいる。障害や病を持つ知人たちの言葉は、この「最も身近な自然」とつきあう方法をさぐる中から生まれた知恵だ。
 『記憶する体』を中心としては、私の仕事の中では、個別的な体の事情にもっともフォーカスした作品である。障害の名前や特性によって一般化することはせず、その体ならではの「ローカル・ルール」を記述することに専念した。この科学というより小説に近いような作品が栄誉ある賞を受けたことを、何より嬉しく思う。この賞は、体から生まれた言葉に対して与えられた賞である。

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