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サントリー学芸賞

選評

芸術・文学 2015年受賞

吉田 寛(よしだ ひろし)

『絶対音楽の美学と分裂する〈ドイツ〉―― 十九世紀』を中心として

(青弓社)

1973年生まれ。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程修了(美学芸術学専攻)。博士(文学)。
東京大学大学院人文社会系研究科助教などを経て、現在、立命館大学大学院先端総合学術研究科教授、ロンドン大学ゴールドスミス校客員研究員。
著書:『ヴァーグナーの「ドイツ」』、『〈音楽の国ドイツ〉の神話とその起源 』、『民謡の発見と〈ドイツ〉の変貌』(すべて青弓社)

『絶対音楽の美学と分裂する〈ドイツ〉―― 十九世紀』を中心として

 受賞対象は『絶対音楽の美学と分裂する〈ドイツ〉』だが、これはシリーズ『〈音楽の国ドイツ〉の系譜学』の第三部として書かれている。第一部は『〈音楽の国ドイツ〉の神話とその起源』、第二部は『民謡の発見と〈ドイツ〉の変貌』。したがって、三部作の全体が評価されたと言っていい。
 シリーズの焦点は、「音楽と言えばドイツ、ドイツと言えば音楽」と広く言われてきたし、また現在も言われているが、そうなったのはせいぜいこの200年のことにすぎないということである。18世紀においてさえ、ドイツ人はむしろ非音楽的な国民だと思われていた。それがそうでなくなったのは、あたかもドイツ観念論の勃興と軌を一にしている。文化的後進国ドイツはその遅れを取り戻す過程で、遅れを利点に変える一種の詐術を行なったのである。話を早くするためにあえて乱暴に言えば、そういうことになる。むろん、この詐術によって、哲学にせよ音楽にせよ、大きな進展を見せたことは否定できないが、このからくりは熟考に値する。なぜならそこにはナショナリズムの魔術的な働きを解く鍵が、さらには特殊と普遍を相互に置き換えながら進む思想史、文化史という魔物の秘密を解く鍵が隠されているからである。たとえば「ドイツは特殊だ、だがその特殊性にこそ普遍性が潜んでいるのだ」などという論理は、ドイツにのみ限らない、古今東西いたるところに見出される論理であり、いまなお世界各地に跋扈している論理だからだ。
 第三部である本書においても、たとえば、ルソーが旋律優位(声)の思想だったのに対して、ヘルダーの影響を受けたフォルケルが和声優位(器楽)の思想を打ち出し、それがやがてホフマンによって絶対音楽の理念に結びつけられ、ベートーヴェン神話――西洋クラシック音楽の普遍性神話――が確立してゆく過程など、じつに興味深い。だが、にもかかわらずショーペンハウアーはロッシーニを絶対音楽のモデルとしていたというエピソードも面白ければ、ヘーゲルがかなりのロッシーニ・ファンであったという、その書簡から引かれるエピソードも微笑ましい。研究が緻密なだけにエピソードも豊富なのである。音楽史であると同時に思想史、政治史としても読める豊かさを持っている。
 本書はしかし、歴史の見直しとして興味深いだけではない。ジャズが往年の活気を失ったことは隠れもない事実だが、いまや同じことがいわゆる西洋クラシック音楽にも起こっているのではないかという不安がきざしている。ファンの老齢化は演奏会場に足を運ぶもの誰もが目にするところなのだ。この不安は、クラシック音楽の先端はいまや袋小路に入っているのではないかという危惧とともにいっそう増大する。それは、ほかならぬ和声の探究とその破壊から始まった現代クラシック音楽の全体に対する懐疑に結びつく。我々は原点に立ち戻って考え直さなければならないのではないか。
 本書はまさにその原点を熟考させる点において稀に見る好著であると言っていい。

三浦 雅士(文芸評論家)評

(所属・役職等は受賞時のもの、敬称略)

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