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サントリー学芸賞

選評

芸術・文学 2011年受賞

輪島 裕介(わじま ゆうすけ)

『創られた「日本の心」神話 ―― 「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史』

(光文社)

1974年生まれ。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程修了。
日本学術振興会特別研究員(PD)などを経て、現在、大阪大学大学院文学研究科准教授。
論文:「クラシック音楽の語られ方―ハイソ・癒し・J回帰」(『クラシック音楽の政治学』(青弓社)所収)など。

『創られた「日本の心」神話 ―― 「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史』

 まだ30代の音楽研究の俊英による、初めての単行本著作である。
 新書版であるうえ、平易な「です・ます」調で書かれているため、軽い本かと一瞬錯覚させかねないが、さにあらず。本書の内容は東京大学に提出された博士論文を踏まえたものであって、文献・資料の調査から緻密な論考にいたるまでアカデミックな手続きを経ており、著者の才筆のおかげですらすら読めるとはいえ、膨大な情報が盛り込まれているだけでなく、論点には傾聴すべき鋭く独創的なものが多い。
 本書の功績の第一は、日本近代の「演歌」(時に「艶歌」とも書かれてきた)の歴史に明確な見取り図を与えたことである。著者の整理によれば、「演歌」という言葉はもともと「演説の歌」の意味で明治時代に起源を持つ大衆芸能だったが、昭和初期に一度衰退してしまう。それが昭和40年代に別な文脈で復興して確立していったのであって、これは比較的新しい現象なのである。輪島氏は音楽産業の構造転換といった社会的側面にも注意を払いながら、その時期に「時代遅れ」とみなされるようになった古いタイプのレコード歌謡が「演歌」と呼ばれるようになった経緯を描き出す。
 功績の第二は、演歌をはるかな過去から脈々と受け継がれるべき「日本人の心」「真正な日本文化」と見なす昨今の風潮に疑義を唱え、そう単純には言えないということを示した点にある。輪島氏は日本の流行歌の歩みは本来雑種的、異種混淆的であって、その一部をなしている演歌にもまた単純には定義できないくらい様々な要素が流れ込んできていることを明らかにする一方で、そもそも演歌もまた、イギリスの歴史学者ホブズボウムの言う「創られた伝統」であると考えるのだが、この主張には十分な説得力がある。
 第三の功績は ――そしてこれが本書の核心となるのだが ――演歌が伝統として創られていく際に生じたメディアや言説の編制の過程を、これ以上はできないというくらい鮮やかに描き出したことである。昭和30年代まで、レコード歌謡は進歩的な知識人によって「低俗」「退廃的」として軽蔑される傾向にあったが、その後、カウンター・カルチャー志向の文化人たちによって価値判断が反転され、演歌として大衆音楽の中核に位置づけられた。演歌が「日本の心」として公認されるのは、さらにその後のことだった。輪島氏は演歌の位置づけに生じたこの二重の転換を、当時の様々な言説を博捜し腑分けすることを通じて説明する。そこから導き出されたのは、いつ、誰が、どのようにして「演歌」を概念化していったのかをめぐる思想と心性のドラマである。
 みごとに受賞の栄冠を射止めただけのことはあって、叙述のエネルギーと才気は、普段「演歌」にあまり興味を持たない読者まで引き込む力を持っている。本書は高度に専門的な研究と調査に支えられながら、狭い意味での専門の枠を超えてアピールする魅力を持ち、大衆文化史、近代日本精神史などの様々な隣接領域と響きあう可能性を秘めていると言えるだろう。その意味で、「演歌」という一見狭いトピックを扱っているようで、射程は極めて大きい。豊かな将来性を持った書き手の誕生を喜びたい。

沼野 充義(東京大学教授)評

(所属・役職等は受賞時のもの、敬称略)

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