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サントリー学芸賞

選評

社会・風俗 2009年受賞

持田 叙子(もちだ のぶこ)

『荷風へ、ようこそ』

(慶應義塾大学出版会)

1959年生まれ。
國學院大学大学院文学研究科後期博士課程単位取得退学(日本文学専攻)。
近代文学研究者。『折口信夫全集』(中央公論社) の編集に参画。世田谷文学館で開催された「永井荷風のシングル・シンプルライフ」展の監修を行う。
著書:『折口信夫 独身漂流』(人文書院)、『朝寝の荷風』(人文書院)など。

『荷風へ、ようこそ』

 永井荷風の読者にはこれまで女性は少なかった。芸者や私娼、女給などいわゆる玄人の女を描いてきた荷風は、花柳小説あるいは好色文学の作家と思われていて女性には敬遠されがちだった。フェミニズムの立場からは『ぼく東綺譚(※)』など、金で女を買うけしからん小説とみなされた。
 これまで荷風を論じた女性は近藤富枝さんなどわずかしかいない。女学生時代に『ぼく東綺譚(※)』を愛読していたという近藤富枝さんはまわりに荷風を読む女生徒はまずいなかったと回想している。
 女性は荷風を読まない。長くそういう時代が続いてきたが、ここに来て、持田叙子さんが登場した。
 前著『朝寝の荷風』(人文書院、2005年)で、荷風は女性を蔑視した作家ではなく、むしろ女性たちの作り出すたおやかでかぐわしい世界を愛した作家、「フェミニンな作家」だと指摘した。まさに目からウロコが落ちた。
 実に新鮮な視点だった。実際、『ぼく東綺譚(※)』の玉の井の私娼、お雪さんはなんと愛らしく描かれていることだろう。荷風の分身である「わたくし」が最後、彼女から離れてゆくのは冷酷すぎるという批判があるが、その批判は実は、お雪さんが可憐に、いじらしく描かれているからに他ならない。
 「フェミニンな荷風」。本書はその視点をさらに深めてゆく。荷風は女性を愛したと同時に、女性たちが作り出すやさしく美しい世界を愛した。軍人に代表される猛々しい世界に対してあくまでも繊細で優美。
 こぢんまりとした庵のような書斎。小さな花の咲く隠れ里のような庭。手作りの原稿用紙をはじめ慣れ親しんだ数々の文房具。
 持田叙子さんは荷風の作品をそうした小さな世界から語ってゆく。そこから「フェミニンな荷風」を描き出してゆく。
 荷風は好色というより、女性たちの衣装(とりわけ着物)や香り、あるいは音曲がかもし出す柔らかな世界にこそ溶け込んでいたかったのだという指摘もうなずける。『新橋夜話』の新橋の芸者たちの衣装や化粧の丹念な描写など、荷風は女性になっているのではないかと思わせるほど。荷風は軍人や政治家、権力者などから遠くはなれて、ただ女たちの遊びの世界に夢見るように浸っていたいのだ。
 今日、荷風は東京散策者、「歩く人」として語られることが多いが、持田叙子さんはそれに対して「家の中の人」としてとらえているのも面白い。そこから荷風にとっての部屋や庭が着目されてゆく。自然主義の作家たちが描く家の多くが暗く重かったのに対し、荷風の描く家は対照的に風通しがいい。こういう視点での荷風論はこれまでなかったように思う。荷風がつとに、小市民の家の改良を実践したイギリスのウィリアム・モリスに着目していたとは知らなかった。
 持田叙子さんは実に丁寧に荷風の作品を読みこんでいる。とくに荷風論では見過ごされがちな初期作品もよく読んでいて、そこから荷風は初期においてはフェミニズムに関心を持っていたと指摘する。これもこれまで語られていなかった。
 「荷風」の「荷」は蓮の花のこと。そこから荷風作品に描かれるさまざまな蓮の花を列挙してゆくところもみごとだし、何よりもいかにも楽しそう。
 文芸評論はやはり自分が好きな作家について語るのが清朗でいい。賞にふさわしい好著。

川本 三郎(評論家)評

(所属・役職等は受賞時のもの、敬称略)

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