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サントリー学芸賞

選評

芸術・文学 2009年受賞

矢内 賢二(やない けんじ)

『明治キワモノ歌舞伎 空飛ぶ五代目菊五郎』

(白水社)

1970年生まれ。
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得満期退学(文化資源学専攻)。
大学卒業後、日本芸術文化振興会(国立劇場)に勤務。伝統芸能公演の企画制作・考証演出、芸術文化支援などに従事。
論文:「『芝居見たまま』の成立と展開 ― 近代における歌舞伎の『記録』と『読物』」(『国語と国文学』第82巻第1号所収)

『明治キワモノ歌舞伎 空飛ぶ五代目菊五郎』

 矢内賢二氏の本著は、今は忘却の彼方にある明治時代のキワモノ歌舞伎の舞台を通して、五代目尾上菊五郎の知られざる姿を活写している。その筆捌きがまことに鮮やかであると同時に、従来の歌舞伎史の欠落部分を補い、加えて本格的に「西洋」と出会った明治という時代の色や匂いを、読むものにたっぷりと伝えてくれる。芝居好きはもちろんのこと、歴史や文芸や芸能に関心のある人にとっては汲めども尽きぬ興味に満ちた好著であり、受賞を期に、より多くの人の目に触れてほしいと願ってやまない。
 本著の主人公である五代目菊五郎は、九代目市川團十郎とともに「團菊」と称され、明治時代を代表する歌舞伎俳優の一人である。というよりも、わが国の演劇史上に残るいくつかの「巨星」のひとつで、その手になる『弁天小僧』や『髪結新三』、『忠臣蔵』の勘平や『千本桜』の忠信などは、今も五代目菊五郎の演技・演出、つまりは「型」が手本になっている。さらには『茨木』や『土蜘』や『戻橋』といった菊五郎創案の舞踊は現行の歌舞伎にとっても重要なレパートリーであり、時代もの、世話もの、舞踊という歌舞伎の全領域にその影を色濃く残している。が、本著がスポットを当てるのは、正統的な歌舞伎史が無視してきたにもかかわらず、当時の観客が熱中したキワモノ歌舞伎、実際の事件や流行の風俗をいち早く仕組んだキワモノ歌舞伎と、その担い手の「キワモノ王」としての五代目菊五郎の生き方である。
 そういう目で選ばれたのが男と見えて女だったという役を男が演じる通称『女書生』、幽霊は神経症による幻覚だという説が大勢を占める文明開化の世の中での神経病の幽霊を中心にした通称『箱根の鹿笛』、毒婦を描いた通称『高橋お伝』、箱屋殺しの通称『花井お梅』、外国のサーカス一座に材を求めた『茶利音曲馬(ちゃりねのきょくば)』や軽気球乗りの通称『スペンサーの風船乗り』、彰義隊を扱った通称『上野の戦争』、日清戦争ものの『海陸連勝日章旗(あさひのみはた)』の八本のキワモノ歌舞伎で、これら周辺の豊富なエピソードや世相とともに ─ 一例にお伝の遺体の解剖に携わった一人が軍医の小山内薫の父だった─ 、菊五郎がいかに役に取り組んで、それをどう生かしたかが詳述される。その描写力が抜群で、読んでいてわくわくする。ここには床の間に飾る伝統芸術としての歌舞伎ではなく、まさに旬のものを食する「見世物の極み」としての歌舞伎のもうひとつの貌がある。一回の上演で終わって伝承されず、しかし限られた上演にこそ命や輝きがあって、斬れば鮮血を吹き上げるにもかかわらず研究者にそっぽを向かれつづけたキワモノ歌舞伎の分厚い実像・・・・・・、貴重な「発掘」だと言うべきだろう。
 さらに加えるべき著者の功績は、九代目團十郎に比較して語られることの少ない五代目菊五郎の、評伝の形を採って成功していることである。とりわけ死に際しての叙述には思わず胸を突かれるが、ここにいたるまでの構成がよく考えられていて、まるで一夜の「芝居」を見るがごとくだ。
 この意味での著者のいい資質の一端が文章力にあるのは疑いがなく、読んで楽しい研究書という離れ業を演じて見事と言える。若さと旺盛な探究心が著者の大きな武器でもあり、今後の一段の飛躍を期待させる。受賞を心から祝したい。

大笹 吉雄(演劇評論家)評

(所属・役職等は受賞時のもの、敬称略)

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