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サントリー学芸賞

選評

思想・歴史 2001年受賞

長尾 伸一(ながお しんいち)

『ニュートン主義とスコットランド啓蒙 ―― 不完全な機械の喩』

(名古屋大学出版会)

1955年、愛知県名古屋市生まれ。
京都大学大学院経済学研究科博士課程修了。
イギリス・サセックス大学客員研究員、滋賀大学経済学部助教授、広島大学経済学部助教授などを経て、現在、名古屋大学大学院経済学研究科助教授。
著書:『EC経済統合とヨーロッパ政治の変容』(共編著、河合出版)

『ニュートン主義とスコットランド啓蒙 ―― 不完全な機械の喩』

 「近代科学の限界」とか「近代思想の地平を超える」とかいった言葉を、ひとはしばしば口にする。が、そのとき、こうした常套文句のなかで、超えるべきものとして想定されている近代科学、近代思想というものがいかに、薄っぺらに一枚岩的に仮構されたものでしかないか。そういう異論が、ひとがあまり見向きもしないテクストや資料群に途方もない時間をかけてきた長尾氏の研究作業を突き動かしている。
 歴史的な存在としてのニュートン主義、そのスコットランド啓蒙としての展開を、20世紀後半に定型化した近代科学批判のなかに埋葬するのではなく、「信仰から政治経済学にいたる知識の異領域にまたがったイデオロギー的・理論的複合体」として析出し、経済学や社会学の生誕の地のひとつでもあったこの地において、科学と思想と社会とがたがいに深く絡みあっていたその複雑な様相を、つぶさに描きだすこと。その最終的な挫折の諸要因をも含めて。このことで、〈西欧近代〉という歴史学的概念をめぐるいっそう複眼的で厚い歴史記述を開くとともに、ありえたかもしれない「未発の歴史」を現在に想起することで、現代という時代の位置づけをめぐってもうひとつの歴史のまなざしを用意するという、壮大なモチーフに貫かれているのが、長尾氏の仕事だ。
 が、それと対照的に、大陸で展開された理神的なニュートン主義とは区別されるこの「啓蒙のニュートン」を追う分析の手際はきわめて微視的である。と同時に、エディンバラにおけるさまざまな知的サークル(「栄光のエディンバラ文人社会」)で頻繁におこなわれた談論のテーマの統計的分析、初期ニュートン主義にみられる〈実験哲学〉の道徳改革への適用、トマス・リードの治世論・経済学の講義ノートの分析、ニュートン批判としてのケイムズの運動論の分析、アダム・スミスの草稿「天文学史」にみる彼の経済学の方法の「謎」の解明、さらには同時代の神学・解析学のテクストへの注解、くわえて当時の大学の教育課程へのニュートン主義の反映やスコットランド啓蒙の終焉の政治・経済史的な要因の分析などにみられるように、長尾氏の筆致はまるでブルドーザーのように果敢に領域横断的である。
 長尾氏は、初期ニュートン主義の世界像を「不完全な機械」として総括する。偶然性と不完全性という世界認識・人間認識を根底に置くこの思想が、その「信仰と科学の黄金の中庸」を破られ、その「穏健な統治と社会秩序を防衛する全体知」を崩されてゆく過程の叙述は、ときに痛切ですらある。テクノロジーとして展開する科学とわたしたちの文化とのあいだで深刻な裂け目が空くことの多い現代にあって、科学と思想と社会とをその根っこのところで統合するようなモラル・フィロソフィーを追究した過去のひとつの歴史を丹念にたどることの意味はけっして小さくない。長尾氏の仕事は、真摯な歴史研究の凄さというものをあらためてわたしたちに思い知らせてくれるものである。

鷲田 清一(大阪大学教授)評

(所属・役職等は受賞時のもの、敬称略)

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