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サントリー学芸賞

選評

芸術・文学 2000年受賞

成 恵卿(そん へぎょん)

『西洋の夢幻能 ―― イェイツとパウンド』

(河出書房新社)

1960年、韓国ソウル市生まれ。
東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。
東京大学教養学部助手、日本大学国際関係学部助教授などを経て、現在、ソウル女子大学校日語日文学科副教授。

『西洋の夢幻能 ―― イェイツとパウンド』

 お雇い外国人教師アーネスト・フェノロサは日本美術のみならず能にも強い関心を寄せてこれを習い、その数曲を選んで英訳を試みた。その訳を含む遺稿がすべてフェノロサの未亡人によってアメリカ生まれの詩人エズラ・パウンドに譲られ、パウンドはこれを整理し、彼なりに詩劇として完成させて、『錦木』『羽衣』など15曲を収めた『能――日本古典演劇の研究』(1916)としてロンドンで刊行した。当時パウンドはイギリスで詩人イェイツの個人秘書の役を勤めていたが、彼の能への熱中はたちまちこのアイルランド詩人にも伝染して、イェイツは翌年『鷹の井戸』という有名な能仕立ての舞踊劇を書くにいたった。
 20世紀初頭の欧米演劇におけるこの能の影響の系譜については、従来もよく研究されてきたし、『鷹の井戸』は1939年の日本初演以来今日まで、日本でもしばしば上演され、その翻案も試みられている。成恵卿さんの著作はもちろんこの系譜を、さまざまな新資料や新研究にも依拠して、たっぷりと面白く語っている。伊藤道郎や久米民十郎など当時ロンドン在留中でイェイツ、パウンドを助けた日本人たちが登場するし、もう一人の能の訳者マリー・ストープスと帝大植物学教授藤井健次郎との「ミュンヘンの恋」を語る一章もある。この本は固苦しいだけの学術書とはちがって、能の発見が当時の英米文壇と日英交流の場につぎつぎに呼びおこしてゆく波紋を、それ自体一つのドラマのように叙述していて、読んでいて思わずひきこまれる。
 だが、成さんの真の手柄はさらにその先にある。それは、夢幻能といわれる曲のほとんどすべてをみずから謡曲として読み、能舞台で見て熟知した上で、それに触発されたイェイツとパウンドの詩劇を原典に即して入念に読みこみ、随所にその原文と訳文をも引用しながら、巧みにみごとに分析してゆく点である。これによって、能の与えた衝撃が彼らの創造のどんな深処にまで及んだものであったかが手ごたえ確かにわかり、あの伝播の系譜がゆたかに肉付けされた。イェイツの『鷹の井戸』から晩年の『窓ガラスの文字』や『煉獄』にまでいたる劇作は、いずれも死後もなおゆかりの土地をさまよう亡霊や、生前への恨みから人にとりつく霊が、荒涼たるアイルランドの風景のなかに登場し、Dreaming back(夢幻回想)、つまり忘れえぬ過去を再現して舞い、語った後に、ようやく「鎮魂」されてゆくという形式をとる。パウンドはフランス・ロマン派のミュッセの劇や、ギリシャのソポクレスの悲劇『トラキスの女たち』を、能の『錦木』や『砧』などを念頭にして夢幻能仕立てに編訳した。さらに彼の創作劇『トリスタン』では、海辺の断崖の上の廃虚を訪ねた旅の男の前に、一人の女が現われて花の咲く木のありかを教えた後に、再び中世風の姿で男とともに登場して、二人が永遠に結ばれえぬ苦しみを歌って聞かせる。夢幻からさめた旅の男は、はじめてここがあのトリスタンとイゾルデの恋のゆかりの城址であったことを知る。
 成恵喞さんは韓国の日本学者である。だが、これらの「西洋の夢幻能」を語るその日本語の文章は、緻密で明快で、しかもまことに典雅。その流れを追ううちに、近代西洋演劇のゆきづまりに一つの突破口を開いたものとしての夢幻能の大きな役割が、しだいにはっきりと見えてくる。東アジアにおける、もう一人の驚くべき才媛の登場である。

芳賀 徹(京都造形芸術大学学長)評

(所属・役職等は受賞時のもの、敬称略)

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