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サントリー学芸賞

選評

社会・風俗 1999年受賞

結城 英雄(ゆうき ひでお)

『「ユリシーズ」の謎を歩く』

(集英社)

1948年、群馬県群馬町生まれ。
東京大学大学院人文科学研究科修士課程修了。
明治大学政経学部教授を経て、現在、法政大学文学部教授。
著書:『アルビオンの彼方で』(共著、研究社)など。

『「ユリシーズ」の謎を歩く』

 ジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』というのは、どうやら名人の造った、きわめて大がかりな、箱根細工のような小説らしい。
 一見したところはどこに手掛かりがあるのか分からないけれど、だんだん詳しく見ていくと、ひょんなところに引き出しが隠されていて、それを抜き出したところにまた、思いもよらぬ仕掛けがしてある、という具合なのである。ジョイス自身がこう言ったそうである。
 「非常にたくさんの謎やパズルを埋め込みましたから、わたしの意図したことをめぐって大学の先生がたは何百年もの間忙しく論議してくれるでしょう。」
 1904年6月16日の、ダブリンの一日のことを細かに綴った小説であり、重要な登場人物はたった三人なのであるが、一方、「たとえダブリンが消滅するようなことがあってもそれは『ユリシーズ』に含まれている証拠から容易に復元できる」と著者自身が言うほどに完璧な描写を含んでもいるのである。
 日本の、まさに大学の先生である結城英雄氏は、この複雑難解な小説を、我々に解るようにひとつひとつの部品に分け、提示しながら見事に解き明かしてくれる。
 細工物の場合はバラバラにしてまた組み立てればそれでおしまいなのだが、小説というのは生き物であるから、それでは終わらない。結城氏は、いったんはずした部品をまた組み込んで動かして見せたり、我々に見えなかった、隠されていた裏の模様の意味を説明したりしながら、ちょっと得意そうに、そして実に楽しそうに話を進めていく。
 たとえば「ブルームはなぜ風呂に入るのか」という見出しのところで、当時のダブリンの住宅事情や市営公衆浴場の値段などを調べ、道路を歩けば泥や馬糞で足が汚れざるを得ない状況などを説明し、さらに主人公ブルームのその時の気分までを我々に解らせてくれる。
 同様にして「ユダヤ人問題」「スティーブンと言葉」「ユリシーズと広告」「裸足の浮浪児」など、どの項も実に興味深く示唆に富んでいる。よくもこれだけのモチーフを発見したものだと思うし、また丹念に調査したものである。これこそまさしく、きわめて文学的な風俗研究である。
 謎解きとしての文学研究は楽しい。しかしそれだけではなくて、著者は謎解きの手順を踏みながら、というよりその手順の故に分かりやすく、アイルランド人の置かれている位置や、文化、歴史について、ひいてはヨーロッパ世界とその文学について、これ以上ないほど具体的に語ってくれるのである。
 本書は『ユリシーズ』理解のための、いわば鍵束なのであるが、その鍵束自体の精巧さと重みが我々を驚かすのである。

奥本 大三郎(埼玉大学教授)評

(所属・役職等は受賞時のもの、敬称略)

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