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サントリー学芸賞

選評

芸術・文学 1998年受賞

高橋 裕子(たかはし ひろこ)

『イギリス美術』

(岩波書店)

1949年、東京都豊島区生まれ。
東京大学大学院人文科学研究科博士課程中退。
千葉工業大学工業デザイン学科助教授を経て、現在、学習院大学文学部教授。
著書:『世紀末の赤毛連盟―象徴としての髪』(岩波書店)

『イギリス美術』

 「イギリス美術」と言われて、私たちの頭にはまず何が浮かぶだろうか。この本の著者も序で触れている、漱石の『坊っちゃん』以来おなじみのターナーの松の絵か。『草枕』で繰り返し語られたジョン・エヴァレット・ミレイの『オフィーリア』か。あとは、ラファエル前派のダンテ・ガブリエル・ロセッティと、世紀末のイラストレーター、オーブリー・ビアズリーぐらいだろうか。
 これでは20世紀期初めの漱石や青木繁の時代とあまり変わりがない。ミレイは『種播く人』や『晩鐘』のフランソワ・ミレーとは違う画家だと、いちいちことわらなくともよくなったのはようやく最近のことだ。彫刻家ヘンリー・ムーアや画家フランシス・ベーコンの名まで出てくれば、すでに相当の英国通ないし美術通とされるだろう。
 私たち平均的日本人の西洋美術についての知識と好みとは、これまであまりにも近世のイタリアと近代のフランスにかたよって作りあげられてきたようである。しかもこれは私たちの場合だけではなく、著者によると欧米の美術史学界においてさえそうだったという。イタリア・ルネサンス以来の「大藝術」(絵画・彫刻・建築)中心の美術観、そして絵画の中では歴史画を最上におき静物画を最下位におく序列など、「正統的」とされてきた基準――それを疑い、それを他地域・他文化圏の美術にまで強制することを批判して訂正する動きが学者たちの間に始まったのは、つい20年ぐらい前からのことに過ぎないという。
 著者高橋裕子さんはそのような学界の新動向をちゃんと踏まえながらも、その主張を正義派ぶって振りかざすことは一切なく、いかにも楽しげに面白く、巧みにしかも平易に、11世紀の「ノルマン人の征服」以来現代まで、千年近いイギリス美術のゆたかな歴史とその特質を、時代ごとに主流となった美術のジャンルに応じて語ってゆく。視野はイタリアにもフランスにもオランダにも、さらに日本にもひろがっていて、それらの国々との交流による島国美術の展開がよく浮かび上ってくる。著者は子どもの頃から家の中にかけられたレノルズやロレンスの絵に親しんで育ったというが、決して今はやりの「なんでも御イギリス」の流派ではないのだ。
 近世の英国に相次いだ宗教改革や市民革命の複雑な歴史と美術とのかかわりも、産業革命の進展とゲインズバラやカンスタブルやターナーやブレイクなど同時代画家たちのそれに対する心理的・思想的対応のさまざまな陰翳も、手に取るようにわかってくる。個々の画家たちの個々の作品に即して分析されているからだ。例えばゲインズバラの農村風景2点の解釈(157頁〜160頁)だけでも、ケネス・クラークの語り口に勝るとも劣らない。
 前にも『世紀末の赤毛連盟』によって本賞の有力候補となった著者の、歴史への洞察の深さ、語り口の円熟ぶりにはあらためて感嘆する。私は250頁のこの新書一冊で英国文化史・社会史をすっかり学び直したような気さえした。この先生に習っているという学習院大生たちは幸なるかな。

芳賀 徹(大正大学教授)評

(所属・役職等は受賞時のもの、敬称略)

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