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サントリー学芸賞

選評

芸術・文学 1995年受賞

張 競(ちょう きょう)

『近代中国と「恋愛」の発見 ―― 西洋の衝撃と日中文学交流』

(岩波書店)

1953年、中国・上海市生まれ。
上海の華東師範大学卒業後、同大学助手を経て1985年日本留学。
東京大学大学院総合文化研究科比較文学比較文化博士課程修了。
現在、東北芸術工科大学教養部助教授。
著書:『恋の中国文明史』(筑摩書房)など。

『近代中国と「恋愛」の発見 ―― 西洋の衝撃と日中文学交流』

 「恋愛」という主題は「人生」の根本問題の一つであり、「人生」を描くことがその最大の課題であるところの「文学」にあっては、「恋愛」を描くことは当然至極のことであって、そこに何の疑問もありえないー日本人はみなそう思っていると言っていいだろう。『万葉集』や『古今集』、『竹取物語』や『伊勢物語』や『源氏物語』から、もし男女間の切実であわれ深い恋愛という主題を省いてしまったとしたら、日本文学はほとんど骨抜きとなり、スープのガラさえとれないほど無味乾燥なものになってしまうことは、言うを待たない。
 しかるに、ある意味で日本文学の重要なご先祖様でもあった中国文学においては、事情はまったく異なっていた。そのことには古くから少なからぬ人々が気付いていたはずだが、理論的にそのことを重大な両者の差異として問題にし、いわば日本文学の中国文学からの独立宣言のごときものとして明確に理論化したものは、たぶん江戸中期の本居宣長先生をもって最初とするだろう。「もののあはれ」を和歌、日本文学の最重要の資格として宣長が論じてくれたおかげで、日本文学は中国文学とは異質の要素、すなわち「恋の文学」を、本質的な部分とするものとして、明らかな個性を自覚するに至った。
 そしてその自覚は、日本文学がヨーロッパ文学と接触した時、ヨーロッパ文学の大きな特性であるものの理解と受容という点で、重要で積極的な貢献をすることにもなった。すなわち、ヨーロッパ文学の最重要の要素の一つである「恋愛」である。日本の近代文学がいち早くヨーロッパの古今の文学作品を、大量の翻訳を通じて摂取し吸収しようと努め、少なくとも応分の理解をもなし得てきた理由は、一千年以上に及ぶそのような歴史があったからである。
 それこそ、近代中国文学と日本文学の鮮やかな対照を生み出したものでもあった。
 中国の生んだ最新鋭の秀才日本文学研究者張競氏の新著、『近代中国と「恋愛」の発見』の、大きな、そして目の覚めるように鮮やかな意義は、まさにこのような本質的問題を、ヨーロッパならびに日本の文化との対比においてとらえ、中国人の視点から、幾多の興味深い新見を、日本の読者の目の前に拡げて見せた点にある。
 とりわけわれわれにとっては、与謝野晶子、厨川白村、田山花袋など近代日本の文学者が、中国人の「恋愛」発見に果たした意外なほど重要な役割について教えられることは、ひるがえって日本の近代を顧りみる上でも、非常に興味深いものがある。論の周到さ、文章の落ち着き、重要なポイントの提示の仕方、引用の巧みで正確なところ、一々感銘を受ける。これが日本語を学んで以来恐らくまだ30年にもならないだろう、若き中国人の書いた本だとは!

大岡 信(詩人)評

(所属・役職等は受賞時のもの、敬称略)

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