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サントリー学芸賞

選評

芸術・文学 1992年受賞

中川 真(なかがわ しん)

『平安京 音の宇宙』

(平凡社)

1951年、奈良県大和高田市生まれ。
大阪大学大学院文学研究科修士課程修了。
大阪大学文学部助手、京都市立芸術大学音楽学部専任講師を経て、現在、京都市立芸術大学音楽学部助教授。この間、ドイツ・ベルリン自由大学客員研究員。

『平安京 音の宇宙』

 平安朝文学をその音環境に重点を置いて読んだ場合、どんな風景が展開し、どんな特徴が紫式部や清少納言の作品の中に見出されうるか――このような視点から平安朝文学をとらえた研究者は今までだれもいなかった。
 中川真氏の『平安京 音の宇宙』には、今あげたようなケースが次々に語られていて、その面白さは格別のものがある。文学における事例などはこの本の中では最も些細な事例に属すると言ってもいいほどに、この民族音楽学の俊英のフットワークは、軽快敏捷に文学・美術・建築・都市環境・祭礼・日常生活その他の間を駆け巡る。
 中川氏のそのような音環境論が、単なる華麗なフットワークの展示会のようなものとは本質的に異なり、今後氏の活動がぐんぐんとスケールの大きい重厚なものになってゆくであろうことは、本書の最後尾におかれたインドネシアのサウンドスケープを論じた第15章「王宮〈音〉都市論」、第16章「サウンド・アートの実験」などの章で明らかである。特に第15章におけるジョクジャカルタの音響空間の叙述は、中川氏の研究の広がりが、どれほど深い必然性においてアジアの音環境全体への生き生きした関心と実体験に根ざしているかを示していて、日本の民族音楽研究の成果もここまで来ているのかという感動を誘う。
 中川氏は京都の音環境を論じつつ、「中世の音楽思想家は、管絃や声明の実現を単なる音現象としてではなく、方位や色彩などと関連しながら世界が開示される、全体的な経験の場として捉えようとしていた」と書いている。京の梵鐘の配置そのものが、中世の「コスモロジー」を表現しているという氏の「仮説」について論評する資格は私には皆無だが、この仮説を支えている氏のフィールドワークの進め方には感銘を受ける。のみならず、そういう視点が、中川氏の深く知るインドネシアの音環境の興味しんしんたるフィールドワークとも通底しているところに、氏の研究のもっている野心的展望の正統性があることを感じずにはいられない。
 中川氏は打楽器演奏者でもあるようだが、インドネシアでガムランを習得し、実に積極的に、めくるめくばかり豊かな音響の空間・時間の中にわが身を沈め、庶民たちの生活の中に溶けこんで、フィールドワークを進めている。この積極性が、遠大な構想とぴったり結びついているところに、中川氏の研究の「明かるさ」がある。私は『平安京 音の宇宙』を読みながら、その筆力にも感心したが、同時に、めまぐるしいほどに変化する話題のそれぞれが、ある大きな構想の中で、みな然るべき位置を得てうまくはまっていることにも感心した。研究の大目標が壮大な音響コスモロジーの解明にあるところからくる、悠然たる思考の見通しのよさを感じる。頼もしい駿馬の疾駆である。

大岡 信(詩人、東京芸術大学教授)評

(所属・役職等は受賞時のもの、敬称略)

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