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サントリー学芸賞

選評

社会・風俗 1990年受賞

上垣外 憲一(かみがいと けんいち)

『雨森芳洲 ―― 元禄享保の国際人』

(中央公論社)

1948年、長野県松本市生まれ。
東京大学大学院比較文学・比較文化課程修了。
東洋大学文学部講師、同助教授を経て、現在、国際日本文化研究センター助教授。
著書:『天孫降臨の道』(筑摩書房)、『空虚なる出兵』(福武書店)など。

『雨森芳洲 ―― 元禄享保の国際人』

 本書の主人公雨森芳洲(1668〜1755)は元禄初年、江戸で、やがて長崎で中国語(唐話)を学びはじめたときの印象を、まるで「風を捕え、影をつかまえるよう」だったと書いている。手を放すと、せっかく学びかけたものが夢のように消えてしまいそうだった、とも述べているそうだ。
 いかにも実感がこもっていて、いい言葉だ。『蘭学事始』のなかで杉田玄白が、前野良沢らといよいよ「ターヘル・アナトミア」の訳読に立ち向かったときのことを回想して、「誠に艫舵(ろかじ)なき船の大海に乗り出だせし如く 芒洋として寄るべきかたなく…」と述べた有名な言葉と、好一対である。しかも芳洲は仲間もなく教科書もなく、長崎の唐通詞に習うでもなく、アマチュアの一医師についただけというから、独習の心細さはひとしおのものであったろう。
 芳洲はその後20年唐話を学びつづけて、結局現代中国語をものにした。しかもその間に、彼は対馬藩の藩儒の一責務として、みずから進んでこんどは朝鮮語を学びはじめた。そのため元禄16年(1703)から2年余り、釜山の倭館に留学し、夏の日など目がくらむ思いもしながら集中的に現地学習をつづけた。朝鮮通信使の接遇などには、同門の先輩新井白石もやったように漢語による筆談でも間に合ったし、儒者芳洲はもちろんそれもできたのだが、彼はハングルを学ぶことによって「中華」とは異なる朝鮮文化を知ろうとし、またそれを発見していったのである。
 芳洲はしかもこの朝鮮語学習を、みずから『交隣須知』など十数冊の教科書を作り、他方では朝鮮側の『倭語類解』(朝=日辞典)の編纂を手伝いながら、行なったのだという。『交隣須知』は明治まで入門書として使われることになる本である。自分で教科書を編みながら外国語を学ぶとは、今日から見てもなんと卓抜なアイデアであることか。
 本書の著者がすぐれているのは、この忘れられていた「元禄享保の国際人」について、当時の東アジア情勢・日朝関係をも広く視野に入れながら、はじめて正当な評伝を書いたということだけではない。右のように、元禄の儒者がいくつかのめぐり合わせから外国語学習を発志し、それを遂行してゆく過程を入念に追い、その過程を通じてこそ彼が相手国の文化への深い理解をもち、寛容の精神を身につけた一縉紳となっていったことを、十分な説得力をもって、明かにした点がすぐれている。
 著者上垣外氏は英語・ドイツ語を揮っていくつもの国際会議をこなし、数回韓国に行くとたちまち韓国語をものにして、今や日韓文化交流史を専攻分野の一つともするという頼もしい秀才である。ヴォルテール、レッシングの「寛容」の思想は、氏の比較文学比較文化修士論文の主題でもあった。本書の直後には秀吉の文禄慶長の役を論じた『空虚なる出兵』という一史書をもあらわしている。氏は果して日韓、そして東西間に立つ21世紀の雨森芳洲たりうるか。
 本サントリー学芸賞はそのような氏への期待をもこめて贈られる。好漢 自重せよ。

芳賀 徹(東京大学教授)評

(所属・役職等は受賞時のもの、敬称略)

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