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サントリー学芸賞

選評

思想・歴史 1989年受賞

堀池 信夫(ほりいけ のぶお)

『漢魏思想史研究』

(明治書院)

1947年、静岡県富士宮市生まれ。
東京教育大学大学院博士課程中退(中国古典学専攻)。
筑波大学哲学・思想学系講師を経て、現在、筑波大学哲学・思想学系助教授。

『漢魏思想史研究』

 思想史の研究書といえば、難解で面目くないというのが一般的なイメージであるが、本書はその通念をみごとに打ち破って、読者を漢魏時代に引きずりこむ。中国の、紀元前2世紀から紀元後3世紀の約500年間を扱っており、つまりは現代から2000年も前の異国の思想が主題であるにもかかわらず、叙述はきわめていきいきと生彩に富み、古臭さをどこにも感じさせることがない。
 それは結局のところ、著者の人間そのものに対する旺盛な興味関心によっているといえよう。高度の学術性を備えた研究書でありながら、予備知識のない一般の読書人にも教養書として、知的で、面白くて、ためになるという、近来まれな好著である。「病弱」とあとがきに記されているにもかかわらず、600ページに及ぶ大著であり、著者の力強い精神力には、瞠目させられる。しかも名文であり、じつに読みやすい。
 漢代は宇宙的思惟の時代であり、自然科学から人倫にいたる整合的数理構造を代表とする、天道の思潮に支えられていた。この天道に対して、魏晋時代は人道の時代であり、人間自体を基準としてものごとを考えていく。そこでは人間の内面に人びとの関心の重心が移行し、哲学や宗教、内的思弁が知識人の心をとらえ、人物評論に異常な興味が注がれた。
 この漢代から魏晋時代へ、宇宙的思惟、天道から内的思弁・人道への展開が、本書の魅力の骨格を形づくっている。著者は漢の詩人、相如の作品を、その一節を引用しながら、「まことに壮麗、実に絢爛、まさに鮮烈なるイメージのあますところなき奔出であった」と述べるが、その言葉はまた、本研究そのものにもあてはまる。
 たとえば前漢期、武帝の時期について、貴人の日常生活はオーケストラつきの酒宴が催され、テーブルには子牛のバラ肉のたけのこと蒲ぞえ煮込み・肥狗のいわたけ入りスープ・熊の手のにこみ・スパイス入りのみそ・鮮鯉のいとづくり・秋黄のしそ・白露の時期のやわらかな茄で野菜・蘭香の酒・めすきじ・ようしょく豹のこどもなどのフルコースが並んだ、といった具合に、考察と叙述は生活史にも及び、具体的かつヴィジュアルである。晋の武帝がもてなしを受けた美味な蒸し豚は、人乳で飼育されたものであったという。
 日常生活史・文学史・技術史・医療史などとの関わりのなかで、彪大な資料を駆使して描かれた思想史研究であるだけに、本書はじつに分りやすく興味深いだけではなく、現代人の物の考え方の虚をつき、ハッと考えさせる内容を豊かに含んでいる。たとえば、前漢末から王莽新にかけて活躍した揚雄の著、難解とされる『太玄』を取り上げ、その独特な三進法(0 1 2 10 11 12 20 21…)の世界を拓いてみせた力量は、抜群というべきであろう。
 2000年前の知恵を現代に生かした、巨大な業績である。

木村 尚三郎(東京大学教授)評

(所属・役職等は受賞時のもの、敬称略)

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