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サントリー学芸賞

選評

思想・歴史 1989年受賞

安野 眞幸(あんの まさき)

『バテレン追放令 ―― 16世紀の日欧対決』

(日本エディタースクール出版部)

1940年、東京都生まれ。
東京大学大学院人文科学研究科博士課程単位取得退学。
弘前大学教養部助教授などを経て、現在、弘前大学教養部教授。
著書:『下人論』(日本エディタースクール出版部)

『バテレン追放令 ―― 16世紀の日欧対決』

 秀吉が天正15年(1587年)6月19日に「バテレン追放令」を発したことは、「教科書」にも記されており、一般的によく知られているが、多少ともキリシタン史に関心を持つ者には、何とも理解しかねる不審な点が残る。まず「松浦家文書」の中の五ヵ条の文書だが――
 「……この文書のポルトガル語訳が納められているフロイス『日本史』の翻訳を松田毅一と共にすすめた川崎桃太から、当文書が『今に至るまで、日本の歴史家の何びとによっても厳密に現代語に訳されていない』ことが厳しく指摘されている。川崎の指摘をまつまでもなく、当文書に関する本格的分析・検討は、未だ充分には行なわれていない。本稿は、こうした課題に応えることを目的としている……」いわば本書は前記の「不審な点」への克明な解明である。
 ところがこの文書の外に、伊勢市の神宮文庫が所蔵する『御朱印師職古格』所載の天正15年6月18日付――ということは前記文書の一日前の十一ヵ条からなる文書がある。そして前記「五ヵ条」とこの「十一ヵ条」の内容は著しく違う。一体この二つの文書はどのような関係にあるのか。実はこれは、今まで正確な解明は行われていなかった問題である。そして私は本書によってはじめて、「なるほどそうであったのか」と納得することができ、同時にそれによって、「バテレン追放令」の眞相を理解できた。
 簡単にいえば、秀吉は、「伴天連門徒」の大名を糾合して薩摩を討ったが、相手の降伏とともに、両者を自己の統治下に組み入れようとしたのが十一ヵ条の方で著者は次のように記す。
 「……〈伴天連門徒と神社仏閣の両勢力を共に秀吉政権の保護下に置き、両者に平和を命ずる〉ことがこの時点での『天下』の内実であり、右近を頂点とする『キリシタン党』やコエリュに率いられた『イエズス会』に対し、このような形での統合を試みたとすることができる」
 簡単にいえば秀吉の考えは神儒仏基の平和共存をもとにすべてを自らの天下に統合することであったが、右近もコエリュも当然のことながらこれを受けいれることはできず、そこで秀吉は「キリスト教国家のイデオロギー」と対決せざるを得なくなる。
 この十一ヵ条には「神国」という言葉も「邪法」という言葉も出て来ないが、相手の拒否に対して、はじめて五ヵ条の追放令が出される。といっても四条、五条は黒船の来訪は差し支えないし、仏法をさまたげないなら「きりしたん国より往還くるしからず」である。そして相手のイデオロギー絶対化に対して、対抗するように「日本ハ神国たる処きりしたん国より邪法を授候儀 太以不可然候事」となる。
 以上の経過は欧米と日本との間に、明治以降にもしばしば生じた図式であり、本書の副題である「16世紀の日欧対決」は現今の諸問題にもさまざまな示唆を与えてくれる。

山本 七平(評論家)評

(所属・役職等は受賞時のもの、敬称略)

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