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サントリー学芸賞

選評

思想・歴史 1987年受賞

山内 昌之(やまうち まさゆき)

『スルタンガリエフの夢 ―― イスラム世界とロシア革命』

(東京大学出版会)

1947年、札幌市生まれ。
北海道大学文学部卒業。
カイロ大学文学部客員助教授などを経て、現在、東京大学教養学部助教授。
著書:『現代のイスラム』(朝日新聞社)、『オスマン帝国とエジプト』(東京大学出版会)など。

『スルタンガリエフの夢 ―― イスラム世界とロシア革命』

 一冊の本を読んで受ける感銘はさまざまだが、同じ一冊の本から実にさまざまの感銘を受けることは珍しい。『スルタンガリエフの夢』は、私にとって、そのような珍しい本の一つであった。
 まず、新しい知識を提供してくれたという感銘がある。本書の中で私が知っていたことはイワン雷帝のカザン征服ぐらいであり、この征服された地がどのような地で、以後その地でどのような政策が実施されて来たのかなどということは全く知らなかった。さらに、タタール人という名は、ロシアの小説その他で知っていたが、それがどのような民族で、どのような歴史的運命をたどったのか、これまた全く知らなかった。
 こういう知らなかったことを列挙していけば、この選評の紙数を越えることになるであろう。本書は私にとって、まず、人類史の中の空白部分を埋めてくれた本であった。読書の目的が新知識の獲得にあるならば、それだけで本書は十分に期待に応えてくれる本である。
 もちろん本書の主題は上記の点にあるのでなく、その表題が示すように『スルタンガリエフの夢』にある。そこに示されているのは、一体それがロシア正教と呼ばれようとマルクス=レーニン主義と呼ばれようと、はたまたアメリカン・デモクラシイと呼ばれようと、支配権を持つ者の普遍主義と弱小諸民族のもつ特殊性は、どのような関係を持ち得るのであろうか、という問題であろう。スルタンガリエフは、この普遍主義のもとに解放されたムスリム民族の脱植民地化に基づく「タタール共和国」の樹立を夢みる。
 その夢の実現を目指した彼の秘密書簡その他に記されている言葉は普遍主義への幻滅を物語っているであろう。「私は中央政府をよく知っていますが、ロシア人いがいの民族に対する政府の政策が旧来の大ロシア帝国主義の政策とほとんど変りないとあなたに迷わずに請け合うことができます」(1923年)。「われわれは、ヨーロッパ社会の一階級(ブルジョアジー)による世界にたいする独裁をその対立物たる別の階級(プロレタリアート)でおきかえようとする処方が、人類の抑圧された部分(植民地人民)の社会生活に格別大きな変化をもたらさないと考える。いずれにせよ、かりに何かの変化が生れたとしても、それはさらに悪くなる方向であって良くなる方向では生れなかった。これに対抗してわれわれは別の立場を提起する。人類が社会的に再編成されるうえで物理的な前提となるのは、植民地・半植民地による本国にたいする独裁の樹立によってのみ可能だという考えがそれである」(1928年)。
 このスルタンガリエフの言葉は、ある意味で第三世界への預言であろう。そしてこの預言を実行に移して成功したものもいるし、挫折したものも、現在実行中のものもいる。だがその成功によってスルタンガリエフの夢は本当に実現するのであろうか。というのは彼は、共産主義というもう一つの普遍主義的な夢を追っているからである。

山本 七平(評論家)評

(所属・役職等は受賞時のもの、敬称略)

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