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サントリー学芸賞

選評

政治・経済 1987年受賞

北岡 伸一(きたおか しんいち)

『清沢洌 ―― 日米関係への洞察』

(中央公論社)

1948年、奈良県生まれ。
東京大学大学院法学政治学研究科博士課程修了。
立教大学法学部助教授、プリンストン大学客員研究員などを経て、現在、立教大学法学部教授。
著書:『日本陸軍と大陸政策』(東京大学出版会)

『清沢洌 ―― 日米関係への洞察』

 ある時代を真摯に生き抜いた人物についての秀れた伝記は、凡百の歴史書よりはるかに生き生きとその時代を再現してくれるだけではなく、人間と社会について透徹した理解を与えてくれるものである。そのような秀れた伝記を書くことは、しかし決して容易ではない。対象となる人物とその時代について広い知識と的確な理解が求められるからである。歴史についての広い知識は長年の研鑚を必要とするし、的確な理解は、自分自身がもしその時代に生まれ合わせたら、どのように行き得たかを自省することなしには決して得られない。伝記とは対象となる人物と著者との真剣な対話の結実に他ならず、そこでは著者の見識と生き方とが端的に問われざるを得ないのである。清沢洌という卓越した知識人を対象とした本書は、日本では数少ない第一級の伝記と云って過褒ではない。
 1920年代から敗戦直前まで主として国際問題の評論家として活躍した清沢洌は、小学校以外には正規の学校教育をほとんど受けなかった独学の人であり、自らの努力と能力で文筆家としての地位と安定した生活を築いた独行の生活者であり、苦境に在っても未来の可能性を信じ続けたたくましいオプティミストであり、16才で労働移民として渡米し全ゆる偏見・迫害を体験しながらもアメリカ社会に底流する理想主義を敬愛した知米派であり、日本を愛し皇室を尊敬する愛国者であるが故に排外主義を批判し国際協調をあくまで主張した国際主義者であり、複雑に流動する国際情勢を冷徹に透視し続けたリアリストであり、そして権威主義と官僚正義を悪み、他人の支配を峻拒する代りに他者の異なる意見には寛容であり、政府よりは民間を、軍事力よりは経済力を、資源や資本よりは勤勉と創意を重視した断乎たる自由主義者であった。
 清沢はいわゆる円満な人格者ではなかった。独学・独行が育んだ強烈な自負は狷介や野心的態度に通じ、リベラルであることは協調性の欠如を意味しがちであった。また満州事変以後の日本で、ナショナリズムと国際協調とのバランスをとることは極めて難しかった。清沢のこのようを言論と行動を、その長所と欠点、成功と失敗を併せ、時代の変化の中に的確に位置づけて、生き生きと描くことに、著者は見事に成功している。清沢の生きた時代の国際環境についての著者の正確な理解は、本書を日本外交史とりわけ日米関係史としても貴重なものにしており、また本物の自由主義者であった清沢に対する著者の深い洞察と温かい共感は、本書をリベラルな生き方についての秀れた手引書にもしている。
 軍国主義に反対し経済的合理性と国際協調を重視した清沢の主張は、戦後の日本で実現された。しかしもし清沢が敗戦直前に急逝することなく戦後も活躍していたら、おそらく彼は、非武装中立や経済主義を批判し、安全保障上の国際協力を強調したであろう。著者の指摘しているように、リベラルであることは「順境にスポイルされないこと」でもあるのである。

佐藤 誠三郎(東京大学教授)評

(所属・役職等は受賞時のもの、敬称略)

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