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サントリー学芸賞

選評

政治・経済 1987年受賞

猪木 武徳(いのき たけのり)

『経済思想』

(岩波書店)

1945年、滋賀県生まれ。
京都大学経済学部卒業後、マサチューセッツ工科大学大学院博士課程修了。
大阪大学経済学部助教授を経て、現在、大阪大学経済学部教授。ハーバード大学経済学部客員研究員としてアメリカに滞在中。
著書:"Aspects of German Peasant Emigration to the U.S. : 1815~1914" (Arno Press)、『人材形成の国際比較』(共著、東洋経済新報社)

『経済思想』

 「経済思想」という学問領域はまことに広漠としていて、何をどのように整理して書けばよいのか見当がつかない程である。数知れない文献を渉猟し、それらをひとつひとつ、意味ある文脈の中に収納していくという作業はなかなか常人に出来る業ではない。
 このようにむずかしさを部分的に回避する方法として通常とられるのは、思想体系をクロノロジカルにまとめるという手法、つまり、「思想史」として書くということである。つまり、アダム・スミスからはじまって、ケインズやサミュエルソン、フリードマンなどの最近の経済理論の枠組みにまで至る時代別考察が主体になる書き方である。
 しかし、本書はあえてこのオーソドックスな編年スタイルをとらず、「トピックス別」に経済思想の全体をとりあげようと試みた大変野心的かつユニークな著書である。たとえば「市場」という概念をどう把えるのか、「政府の役割」の変遷、「貨幣」の意味、「労働」とは何か、といった具合に、経済学にしばしば現れるキー・コンセプトを柱にして経済思想の変遷を記述しようというわけである。
 いうまでもなく、ここにあげたそれぞれのトピックスの背後には、膨大な思想的広がりがあり、数知れぬ思想家が薀蓄を傾けてきた知識の集積がある。その中に一本の横糸を通して、ある論理性を確保することはおそらく相当の難業である。猪木氏の力量は、これらひとつひとつのトピックスに対して、彼独自の視角を与えつつ、見事な論理一貫性を確保したという事実に如何なく示されている。
 ただし、本書のような「トピックス別」の書き方を採用すれば、トピックスのカバレッジに関しては若干の問題が不可避的に発生するように思われる。実際、ハイエク流の思想に重点が置かれすぎているのではないかという疑問が残るし、その反面、最近の合理的期待理論や情報に関する新しい考え方、国際経済に関する言及などが欠落しているという指摘も可能であろう。
 しかし、このような問題指摘はないものねだりの類に属するのかもしれない。なぜなら、一冊の書物の中に書き込める事柄には当然のことながら限りがあり、何もかもというわけにはいかないからである。むしろ、本書のような新しい知的試みをこそ高く評価すべきなのであろう。
 さらに言えば、著者の読書量の多さ、キリスト教に対する深い洞察力、自由主義に対する透徹した信念などが、本書にある種の深みと信頼感を与えており、それが本書の大きな魅力になっていることも付言しておきたい。

中谷 巌(大阪大学教授)評

(所属・役職等は受賞時のもの、敬称略)

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