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サントリー学芸賞

選評

芸術・文学 1987年受賞

伊藤 俊治(いとう としはる)

『ジオラマ論』

(リブロポート)

1953年、秋田市生まれ。
東京大学大学院人文科学研究科修士課程修了。
現在、美術評論家、美術史家。
著書:『写真都市』(冬樹社)、『裸体の森へ』(筑摩書房)、『生体廃墟論』(リブロポート)

『ジオラマ論』

 伊藤俊治氏の『ジオラマ論』は「イメージの時代」としての現代の根を形成した19世紀の視覚像の変革を中心主題に据えて、その「イメージ空間」の特質と意味を明らかにしようとした力作である。たしかに、西欧19世紀は、産業革命のもたらした巨大な成果によって人間の生活と意識が大きく変化した激動と変革の時代であった。鉄道の発達によって交通網がはりめぐらされ、都市が肥大化し、ガス灯の設置とやがて電燈の登場によって夜の世界が開かれ、電話や電信の発達は情報伝達の範囲と内容を著しく拡大し、写真の発明によって映像世界に決定的な変革がもたらされた。おそらく、例えば第二帝政期から世紀末にかけての時期を生きたパリ人にとって、このような変化は、今日のわれわれの想像をはるかに越えた新鮮な驚きと思いがけない発見を与えてくれた筈である。事実、疾走する汽車の窓から眺めた風景は、たとえそれが時速15マイルに過ぎないものであっても、外界を眺める人間の眼を大きく変えてしまったであろうし、軽気球に乗って1700フィートの上空から見下した地球の相貌は、距離感と遠近感の喪失というかってない視覚体験を味わわせてくれたのである。
 『ジオラマ論』は、このような社会史、文化史、技術史、美術史、思想史、写真史のあらゆる分野にわたる問題に旺盛な知的好奇心を働かせて広い視野から主題にアプローチしようとしている点できわめて野心的な試みであり、また、ともすれば雑然となりがちなそれらのさまざまの現象を、後の写真発明家であるダゲールの「ジオラマ」(1822年)に象徴される新しいイメージ体験の獲得という中心主題に収斂させている点で、鮮明な問題意識に貫かれた歴史再構成の試みでもあると言える。
 伊藤氏はこれまでにも『写真都市』、『裸体の森へ』のような写真論、映像論を発表しているが、今回の『ジオラマ論』では、これまでの著作にも見られた優れた映像資料収集能力と文明評論的視点に加えて、同時代の証言や歴史的資料に対するいわば歴史家としての視点も加わり、内容を厚みあるものとしている。19世紀という時代をどのように理解するかという問題は、それが直接現代のわれわれの生き方ともかかわっているだけに、しばしば意外に見えにくいものを持っているが、写真という映像メディアに対する関心から出発して、従来の写真史や美術史の枠を越えた「イメージ空間」を手がかりとして視覚の精神史を企てた『ジオラマ論』は、今後おそらくますます盛んになると思われる19世紀論に新しいパースペクティブを開いた優れた労作である。

高階 秀爾(東京大学教授)評

(所属・役職等は受賞時のもの、敬称略)

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