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サントリー学芸賞

選評

政治・経済 1986年受賞

斎藤 修(さいとう おさむ)

『プロト工業化の時代 ―― 西欧と日本の比較史』

(日本評論社)

1946年、埼玉県生まれ。
慶應義塾大学経済学部卒業。
慶應義塾大学経済学部助手、同助教授などを経て、現在、一橋大学経済研究所助教授。

『プロト工業化の時代 ―― 西欧と日本の比較史』

 本書は、産業革命が始まる前の、工業化への準備段階ともいうべき「プロト工業化」時代における経済社会の様相を、日本と欧州との比較という視点から分析した貴重な研究書である。日本では、いわゆる大塚史学がこの時代の研究を手掛け、大きな成果をあげているが、本書はそうした先学の業績を踏まえたうえで、メンデルスらの18世紀フランドル地方を素材とした「プロト工業化モデル」に依拠しつつ、産業革命を成立させた「先行条件」について分析している。
 本書は大きく分けて二つの部分からなる。前半においては、西欧社会におけるプロト工業化の分析が示される。そのモデルになるのが、メンデルスらのプロト工業化論である。このモデルの大きな特徴は、農村の工業化と人口動態の関係を陽表的に分析するところにあるが、このモデルが西欧社会でどの程度妥当するかということが、各地の事例によって検討される。
 後半は、日本のプロト工業化についての議論に当てられている。徳川から明治にかけての農村工業の発展が、市場の形成、人口の変動との関連において概観されると同時に、明治初年の地域統計を使って、フランドル地方にモデルを持つプロト工業化論の命題がはたして日本に妥当するかどうかが数量経済史的に検証される。結論的には、日本のプロト工業化の展開が西欧のそれとは、表面上の類似性にもかかわらず、かなり重要なところで異なるということが説得的に示されている。
 筆者によれば、フランドルでみられた爆発的な人口成長と農村工業の密接な相互依存関係は、日本ではかなり異なった展開をみせるという。この点にかんして詳しく紹介する余裕はないが、たとえば、ルイス流の無制限的労働供給理論は、フランドル地方にはかなり適合していたけれども、日本には適用できないこと、明治期以降の農村が低賃金労働の供給源であったとする通説への疑問の提示など、評者のような経済史の専門家でない読者にも大変刺激的な指摘がちりばめられている。
 本書の魅力は、筆者がかなりの程度意識的に「論争的」であろうとしている点である。メンデルスのフランドル・モデルを議論の出発点としつつも、それの機械的な応用作業に堕することなく、筆者独自の解釈が随所に展開されている。筆者もはしがきのなかで明言しているように、本書では、もともとバイアスのない網羅的サーベイは意図されていない。むしろ、筆者自身の実証分析をもとに、日本型プロト工業化モデルについての仮説が大胆に提示されているのである。
 欲をいえば、農村工業の発展が産業革命に移行するプロセスの分析があれば、もっと一般読者の興味を惹いたかもしれない。なぜならば、大部分の読者にとっては、工業化そのものこそ究極の興味の対象であるからである。しかし、プロト工業化時代に関する研究がきわめて手薄という現状を思えば本書の持つ意義は高く評価されてしかるべきであり、学芸賞の受賞に値するものと考えられる。

中谷 巖(大阪大学教授)評

(所属・役職等は受賞時のもの、敬称略)

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