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サントリー学芸賞

選評

思想・歴史 1983年受賞

本城 靖久(ほんじょう のぶひさ)

『グランド・ツアー ―― 良き時代の良き旅』

(中央公論社)

1936年、京都市生まれ。
京都大学法学部卒業。
自治省に入省。1967〜71年、フランスに留学。国連職員としてセネガル、ケニアで勤務。現在、著述、翻訳活動に携わる。
著書:『西アフリカ:失われたものへの回帰』(駸々堂)など。

『グランド・ツアー ―― 良き時代の良き旅』

 18世紀ヨーロッパはこれまで、歴史の分野では省みられるところの少ない時代であった。何しろ、市民革命につづく19世紀の近代市民社会に明るいスポットライトがあてられ、18世紀はこの市民革命によって克服されるべき暗いアンシャン・レジーム(旧体制)の時代と捉えられたからである。
 状況はいま、グルリと180度転換しつつある。まず第一に戦後の先進諸国における飛躍的な経済の高度成長とそれによる社会・意識の劇的な変化のなかで、市民革命とか近代市民社会に見出されていた変革性とか革命性とかは、大したものではなくなってしまい、いつしか色あせた。つまりは19世紀の革命よりも戦後の都市化・産業化の進展のほうが、はるかに革命的であった。
 そして、第二に、70年代半ばから低成長経済の時代がこれまた先進諸国に共通して訪れ、これとともに革命とか戦争とかの荒々しく男性的な生き方を先進諸国の誰もが忌避するようになった。こうして19世紀を積極的に評価する見方は、決定的なダメージを受けることとなった。
 代って浮上し、スポットライトが改めて当てられるようになったのが、一八世紀である。それはちょうど今日における成熟の時代と似て、貴族階級を中心として学問・文化の花が開いた時代であり、人びとが遊びを真剣に遊び、余暇ないし自由時間をサロンや旅、学問、芸術にたっぷり費やすのを生き甲斐とした時代であった。
 そんな訳で、わが国でもヨーロッパ史研究者が18世紀に対してようやく関心を向け出したその矢先に、まことにタイミングよく現われたのが本書『グランド・ツアー』である。グランド・ツアーとは、18世紀イギリス貴族の子弟が一人前になるための修学・勉学のため、フランスやイタリアなど大陸各地を旅して歩いた大周遊旅行のことで、当時、フランスを旅する2人に1人は、彼らイギリス人たちであった。その周遊の模様、そして当時の南北フランス、パリ、イタリアの様子を、本書は詳細に描き出している。
 著者による叙述は旅そのものの実態からホテルのベッドや食事、街のたたずまい、乗物、娯楽の類いなど、じつに具体性に富んで面白く、しかも的確に18世紀社会をつかんでいる。たとえば旅先のベッドでは、4つの脚の下に水を入れた容器を置き、毒虫がベッドに這い上らぬようにした話など、当時の人びとの苦労や知恵にも驚かされる。
 本書は誰が読んでも興味津々で面白いが、あくまでも日常生活に即し、社会生活のディティルを具体的に描くことによって時代の意識とか集団的心性(マンタリテ)を探ろうとする態度は、最近のヨーロッパにおける新しい歴史学の手法でもある。著者はいわゆる歴史学者ではない。しかし18世紀ヨーロッパの社会史、貴族文化・生活文化の実態をこれほど生き生きと描き出した書物は、わが国では珍らしく、推奨に値する。

木村 尚三郎(東京大学教授)評

(所属・役職等は受賞時のもの、敬称略)

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