近藤 絢子(東京大学社会科学研究所教授)
『就職氷河期世代 ―― データで読み解く所得・家族形成・格差』(中央公論新社)
わが国で、1990年から株価が下落し始め、1991年をピークに地価が下落し始めて、1980年代後半に謳歌した「バブル」が崩壊していった。その影響が新卒採用市場に現れるのは、少し遅れて1993年とされる。新卒就職活動生の間では、最初に影響が出た年は「就職氷河期」、その次の年は「就職超氷河期」、その次の年は「就職超々氷河期」と呼ばれ、就職難が年々深刻化していった。
1993年から2004年に高校、大学などを卒業した世代を就職氷河期世代という。生年でいえば、1970年(1993年に大学卒業)から1986年(2005年に高校を卒業)が該当する。バブル崩壊後の雇用環境が厳しい時期に就職活動を行い、その後も就業上困難に直面している。本書ではこの世代を、就職だけでなくその後のキャリアパスや家族形成に至るまで、データで丹念に追いながら、その実態に迫っている。就職氷河期世代には、1971~1974年生まれの団塊世代ジュニアも含まれている。人口が多い年代が含まれているが故に、その世代を襲った影響が社会全体に与えるインパクトは大きい。
本書の説得力は、国勢調査、労働力調査、人口動態統計、賃金構造基本統計調査、学校基本調査といった基幹統計を駆使して、就業状況のみならず雇用形態や賃金動向、婚姻や世帯形成などを時系列的に捉えて、就職氷河期世代の特徴を際立たせているところにある。副題である「データで読み解く所得・家族形成・格差」が、本書の内容を見事に言い表している。
本書の刊行時期は、政府が就職氷河期世代の支援策を強化するタイミングと重なった意味でもタイムリーだし、この世代は年長者だと今や50代に達し、分析できるデータの蓄積も充実してきたという点でもタイムリーだといえる。
著者は、就職氷河期世代を1993~1998年卒を前期世代、1999~2004年卒を後期世代と定義し、その前の1987~1992年卒をバブル世代、さらにその後ろの2005~2009年卒をポスト氷河期世代、2010~2013年卒をリーマン震災世代と定義して、就業状況、年収、出生率などを比較している。比較によると、就職氷河期世代の直後の世代でも、悪化した雇用状況が十分に改善されていなかったという。特に、初職が正規雇用だった人の割合が下がっていた。ただ、正規雇用割合は卒業後の年数を経るにつれて世代間の格差はなくなっていくが、年収の格差は年が経っても縮まらないことを、本書で浮き彫りにしている。このように就職氷河期世代を、1つの世代として独立的に分析するのではなく、前後の世代と比較する手法によって何がどのように違うかをあぶり出すことで実態を解明している。
本書によって新たに明らかにした点は、同じ就職氷河期世代でも、団塊ジュニア世代が属する前期世代よりも後期世代の方が40歳までに産む子供の数は実は多かったことである。就職氷河期後期世代では、若年期の雇用状況がとりわけ厳しかったにもかかわらず、出生率が下げ止まっていた。通説を覆す新事実である。
近藤絢子氏は、女性労働経済学者として、国際的にも高く評価される研究を次々と発表している。本書では分析に基づいた政策提言も打ち出しており、今後は学術研究のみならず、社会にも還元する経済学者としても活躍を期待したい。
土居 丈朗(慶應義塾大学教授)評
鶴岡 路人(慶應義塾大学総合政策学部教授)
『模索するNATO ―― 米欧同盟の実像』(千倉書房)および『はじめての戦争と平和』(筑摩書房)
鶴岡路人氏による『模索するNATO』は、第二次大戦後に形成され、冷戦期以降の米欧の安全保障関係を長きにわたって支えてきたNATOを分析したものである。NATOはすべての加盟国が有事には共同で身体を張ることが条約上の義務になっている、強力な集団安全保障機構である。アメリカとの二国間の同盟関係によって安全保障を追求してきた日本にとっては、多国間の安全保障機構であるNATOは、目指すべきモデルと考えられることもある。だがそのNATOの分析は、成立史や条約や関連の取り決めといった静的な公式法制度論になりがちだ。しかし80年近くも重要な役割をはたしてきたこの軍事機構は、様々な課題に動的に対応を続けることによって、その有効性を維持してきた。
本書ではそのNATOが、比較的近年の冷戦後の時代に実際にどのように機能し、しかも国際情勢の変化に応じてどのように対応し変容を遂げたのかが、豊富な資料によって示されている。ブリュッセルに勤務して現実に動いているNATO本部を観察し、関係者とも頻繁に交流した経験のある著者だからこそ書けた、文字どおり動いているNATOの姿の活き活きとした描写は著者の真骨頂であり、欧米同盟の生々しい動態を示したものだ。
もっとも本書では、全体を貫く分析枠組みははっきり示されず、NATOという分析対象だけではなく、分析視角も動き続ける。そのため一冊の本としての一貫性が見えにくいのが気になる。それぞれの時点で立ち現れるそれぞれの課題への諸国の対応過程の叙述は見事で、その道のプロには確かに有益だが、「各国の意思が問われている」といった時事的な記述も散見され、学術分析としては一層の体系的な分析が欲しいところだ。
「NATO研究者」というより、「NATOウォッチャー」を自認する筆者には、これはないものねだりなのだろうか。もう一冊の受賞対象作である『はじめての戦争と平和』は、こういった読者の疑問に応える内容だ。議論の構成は整理が行き届き、安全保障政策の全体像が分かりやすく語られる。日本の大学では依然として等閑視されがちな安全保障論だけに、初学者にとってわかりやすく簡潔であっても体系的な入門書は、重要な知的貢献である。入門書としての本の性格からして、オーソドックスな安全保障論の枠組みを踏襲している内容になっているのは避けられないだろうが、若い世代にとっても理解しやすい最近の事例に触れながら、日本人に身近な話題に引きつけて論じた核兵器にかんする記述などでは、著者ならではの分析が簡潔に展開されている。
著者は外交安全保障分野の政策コミュニティーの一員として、国際会議にも積極的に関与するとともに、時事的な政治評論の世界でも華々しい活動をしていることは周知の事実だ。国際政治とりわけ安全保障研究では、危機や戦争といった世間の耳目を集める現在進行中の出来事に、研究者は限られた情報と時間で専門家としての見解を述べることも期待される。こういった時事的な評論と学術研究の両立には難しい部分もあるが、もちろんそれは不可能という訳ではない。実際これまでも優れた時評は、時代を越えて長く読まれてきた。受賞対象となった二つの著作でその力量を示した著者をたたえるとともに、今後どのような方向を選ぶにせよ息の長い研究とその成果を期待したい。
田所 昌幸(国際大学特任教授)評
荒井 裕樹(二松學舍大学文学部教授)
『無意味なんかじゃない自分 ―― ハンセン病作家・北條民雄を読む』(講談社)
荒井裕樹氏の『無意味なんかじゃない自分』は、そのくだけたタイトルから内容が想像しにくいが、副題にもある通り、「ハンセン病作家」として知られる北條民雄の著作を読み直す試みである。サントリー学芸賞の最近の候補作の多くが、新進の若手研究者による博士論文に基づいた「硬い」学術書であるのに対して、本書は柔らかな「です・ます」調で書かれた長編エッセイという趣があり、その意味では異色作と言えよう。平明な達意の文章は読みやすく、説得力がある。
とはいえ、決して手軽に書かれた読み物ではない。背後には著者の長年の学術的研究と社会的実践の重みがある。荒井氏は、ハンセン病者と脳性麻痺者の文学活動を扱った博士論文「病者と障害者の文学における自己認識と自己表現の諸相」(2009年)を出発点とし、その後も一貫して障害者文化論に取り組んできた。本書はそういった著者の思想の到達点を示すものになっている。
北條民雄(1914-1937)は、ハンセン病の療養所に隔離されながら創作を続け、23歳で亡くなったが、代表作「いのちの初夜」(1936年)は病苦と差別の苛酷な極限状況で「いのち」の輝きを見つめた類例のない作品として記憶されている。しかし今では、「あまりにも高くて遠いところに」祭り上げられてしまった感もある。荒井氏は北條を、一人の青年として「体温と息遣いが感じられるくらいの距離に置き直」す。そして、彼の著作や言動に認められる、周囲の人々に対する傲慢さや毒々しさから目をそむけず、そのような態度を取ることがはたして「認められる」のか、と問いかける。これは実証的な研究にはなじみにくい優れて倫理的な問いだが、このような問題意識から荒井氏は現代社会に蔓延する「生きにくさ」という大きな話題にも議論を接続していく。
その一方で、本書は厳密にテクストに向き合うことがいかに大事かを教えてくれるという意味では、伝統的な文学研究のよき手本でもある。「いのちの初夜」に出てくる「バット」(煙草の銘柄「ゴールデンバット」の略称)というディテールの深い意味や、日記の筆写の際に行われた改竄に秘められた人間関係などを解き明かすくだりには、わくわくさせられた。
障害者・病者に対する社会的な差別・偏見から、苛酷な境遇に置かれた個人の痛々しい自意識まで。提起されるのは単純には答えられない複雑な問題ばかりである。しかし、荒井氏は安易な答を出すことは避け、むしろ問い続けること、そして問いの「解像度」をあげることが大事だと説く。じつはこのようなネガティヴ・ケイパビリティ、つまり解決できないことをそのまま受け止めて向き合い続ける能力こそ、今日の人文研究、特に本来要約できない複雑な現象である文学作品の研究に必要なのではないか。今の世の中、まず明確な「アーギュメント」(主張)を示し、切れ味のいい理論を使ってそれを理詰めに立証するといったタイプの論文をよしとする効率主義の風潮が強まる中、このような姿勢は貴重である。
すでに数多くの優れた著作のある荒井氏ではあるが、今後も引き続き障害者文化研究という大事な分野を牽引し、さらに社会的発信を続けていかれることを期待したい。
沼野 充義(東京大学名誉教授)評
細川 瑠璃(東京大学大学院総合文化研究科専任講師)
『フロレンスキイ論』(水声社)
旧ソ連の怪物的思想家をめぐる圧倒的な著作である。フロレンスキイはロシア正教の司祭であると同時に、レーニンによる国土電化計画にも携わった科学者/数学者。最後はスターリンにより処刑された。その知識はカントールの集合論や虚数概念からダンテやノヴァーリスやロシアのイコンにおよぶ。ふつう人はこのような人物を研究対象にすることに恐れをなすだろう。そして「科学者でもあったロシア神秘主義者」のレッテルを貼り一件落着とする。しかし細川氏はこの怪物を前に臆さない。思想の全容を真正面から全身で受け止める。「全」というところがポイントだ。西欧近代は「全体」を「専門」という名の細部に分割することを絶対善としてきた。しかしフロレンスキイは「全体」を回復しようとする。近代への強烈なアンチテーゼだ。だから「ここまでは文系/ここからは理系」などと分割していては、全貌は理解できない。かくして細川氏は文系知と理系知が交錯する未到の森へ踏み出す。非ユークリッド幾何学とダンテ、ゲーテと無理数、美をめぐる思想と不連続関数の間を自在に往復する。それはまるで『神曲』におけるダンテの旅だ。文系領域にこもっていては絶対にわからない何かが見えてくる。
おそらくフロレンスキイ思想のライトモチーフは、「この世界」に対する「もうひとつの世界」の構想だ。表面に対する裏面、有限に対する無限、実数に対する虚数、地に対する天、そして生に対する死。その中心となる概念が「かたち」である。「美」である。鉱物の結晶体のように強靭で完璧な「かたち」。それ自体で全宇宙=コスモスを成すかたち。そこにこそ「美」が宿る。そして完璧な美は、例えばロシアのイコンがそうであるよう、逆説的に「もうひとつの世界」への移行点となる。そのとき芸術作品=かたちは祈りになる――私にはこの感覚がよくわかる。本書ではフロレンスキイの友人としてマリア・ユーディナの名が挙げられていた。旧ソ連のこの伝説の女流ピアニストが弾くバッハやモーツァルトには、確かにこのような意味での美とかたちと祈りが宿っていた。
ルネサンス遠近法/ガリレオの地動説/デカルト座標/ニュートン的古典物理学で確立された「世界を見る枠組み」を、相対性理論と量子力学以後の先端科学者はもはや信じてはいまい。本書が示すフロレンスキイの世界像は、ひも理論やパラレルワールドやフラクタル概念と驚くほど近いと感じる。それに引きかえ「文系」は旧態依然たる古典物理学的客観性にいまだに立てこもってはいないか。こんなことで近代を撃つことなど出来るのだろうか―― 自分を省みて猛省する。
どう見ても近代世界の賞味期限が来ていることは明らかだ。今求められているのは、後期近代の手垢でまみれた文理融合などではなく、近代が分断した知の再統合であり、そこへ向けた逆コペルニクス的転換ではないか。新しい世界像の構築は、きっと新しい「かたち」を見つけることから始まるのだ。理論物理や先端数学だけでなく、「新しい美のかたち」を見つける芸術の使命も大きい。若い著者に限りない畏敬の念を抱きつつ、さらに大きくかつラディカルな思想展開を心から待望している。
岡田 暁生(同志社大学客員教授)評
鈴木 昂太(国立民族学博物館人類文明誌研究部助教)
『比婆荒神神楽(ひばこうじんかぐら)の社会史 ―― 歴史のなかの神楽太夫』(法藏館)
広島県庄原市東城町・西城町の地に、350年以上も前から脈々と伝わる比婆荒神神楽(ひばこうじんかぐら)。従来、その歴史は「祖霊加入」や「神の託宣」といった、ややもすると本質主義に傾きかねない神楽の意味論によって説明されることが多かった。これに対し、本書が試みるのは神楽の社会史である。注目するのは「人の生きざま」だ。それぞれの時代の社会的状況のなかで、神楽に関わる人々が、神楽を通してどのようにサバイブしてきたか。神楽を伝える、ではなく、神楽が伝わる。伝承とは、そのときどきの現実的な制約条件に、ときに節操なく見えるほどの創造性で応答していく、その積み重ねのことを言うのだろう。
そもそも比婆荒神神楽は、地域の人々が神楽の担い手である社家に開催を依頼することによって初めて実施される。つまり、毎年開催が決まっている例祭の場で地域の人々が演じて奉納する形式とは異なり、完全にオンデマンド方式なのである。当然、年に数回大規模な神楽が開催される年もあれば、全く行われない年もある。不幸が続いたときや逆に豊作で五穀豊穣を感謝したいとき、願掛けをしたいときなど、依頼の理由はさまざまだ。
このことは、比婆荒神神楽に「商品」としての性格をもたらす。神楽の担い手は、顧客である地域の人々との信頼関係を構築するために日頃から努力を重ねてきた。また内容についても、娯楽としての価値を高めるために歌舞伎や浄瑠璃といった流行を取り入れたり、逆に担い手の立場を守るために仏教的要素を廃したり、国家神道の教説を取り入れたり、時代に合わせたさまざまな工夫を重ねてきた。こうした変化を、著者は決して「古態の喪失」と嘆いたりはしない。現実的な利害をめぐる争いのなかで、利用できるものは利用し、捨てるべきものは捨て、最適解を試行錯誤しながら神楽の商品価値を高めていく。どこか即興的な人々の営みの結果が、比婆荒神神楽の歴史なのだ。
その歴史を、著者は、旧家に伝わる古文書、藩によって編纂された地誌、伝承者の手記、面や道具箱に記された墨書、当事者への聞き取りなど多種多様な資料を用いて明らかにしていく。その分析は緻密で、文体は学術書にふさわしい抑制的なものなのだ。だが各章の末尾に置かれた「小括」だけは少しだけトーンが変わる。それまでの資料にもとづく緻密な分析が著者自身の言葉で総括されるため、一気に見取り図がクリアになるとともに、書き手の声がより明確に聞こえる感じがするのだ。読んでいるうちに、この「緻密な分析→小括」という転調のリズムがだんだんクセになっていき、次第に、「この分析はあとでどんなふうにまとめられるのだろう」と楽しみになるほどだった。
あとがきには、この本を完成するにあたって、著者が実にたくさんの「研究会」に参加してきたことが綴られている。大学の壁や分野の壁、地域の壁にとらわれず自在に移動しながら思索を深める姿勢に、小括でほとばしり出ていたのはこの情熱だったのか、と合点がいった。人の営みの中に事象を置くことで幻想を解体する研究スタイルと、それを支えるアクティブでまっすぐな情熱が、今後のさらなる研究領域を開拓することを期待したい。
伊藤 亜紗(東京科学大学教授)評
松永 智子(東京経済大学コミュニケーション学部准教授)
『米原昶(よねはらいたる)の革命 ―― 不実な政治か貞淑なメディアか』(創元社)
夏の全国高校野球の第一回大会の開幕試合で勝利したのは、鳥取中学(現在の鳥取西高校)である。はかま姿の新聞社社長による始球式の写真はあまりにも有名だが、背後に立つ投手のユニホームには「TOTTORI」の文字が刻まれている。
屈指の伝統校である鳥取西高校には、生徒に長年歌い継がれている応援歌「祝勝の歌」がある。同僚である50代の西高OBに歌のことをたずねると、竹刀を持った応援団に叩き込まれたという歌詞がすらすらと飛び出した。
「熱と力の高潮に/行手さえぎる猛者なく/月桂冠はかくかくと」から始まる作詞者不明とされてきたその歌が、革命に生涯を捧げた郷土の政治家であり、“メディア人間”でもあった人物の手によるものであることを、多くの人々は本書によって初めて知るだろう。
社会や地域を少しでもよくしようとする「革命」の追求には、イデオロギー(内容)だけでなく、日常の場で語り交わされるエートス(形式)が不可欠である。地方の大富豪の御曹司の身分やエリート学生の肩書を捨てて革命家に身を投じた米原昶(よねはらいたる)とその同志たちは、弾圧時代の地下生活のなか、独自の言葉をリレーでつなぎながら運動を続けた。
不安定であるがゆえに強固な結束でもあった言葉のネットワークの根幹にあったのは、同志の間で手渡しされる「紙」の存在である。戦前には、機関紙の存在が決して明るみに出ないよう偽装され、徹底的に暗記したうえで次の同志の手に渡った。地下生活は紙の本を扱う地域の知の拠点――書店の経営者たち――によっても秘かに支えられていた。
戦後の合法化の時代に入っても、紙を媒介に言葉と思いをつなぐという仕組みは、党員や議員が自ら新聞を配達するという独自の動員形式によって強化されていく。新聞を手渡し、その過程で聞き、語ることで双方向のコミュニケーションが生まれる。印刷の匂い漂う紙を直に配り、また配られるという原初的な社交こそが、人と人とをリアルにつないできたのだ。
本書は、メディアを駆使した一人の革新政治家のすぐれた評伝である。同時に、現代の政治家やマスメディア、さらにはインターネットなど、それぞれの場で日常的に飛び交う「改革」といった言葉が、なぜこれほどまでに空虚で心に響かないのかを鋭く示した一冊とも読める。革命であれ、改革であれ、必要なのは戦略でも「〇〇ファースト主義」でもなく、思いを託せる歌や紙が象徴する手応えある存在だ。歯止めなくデジタル社会・AI社会が進むなか、失われつつあるリアリティをこれから何が埋めていくのだろうか。
著者は、一人の政治家の人生と紙媒体の果たしてきた役割を通じて戦前から戦後にかけての社会の激動を瑞々しい映像のように活写しており、社会・風俗部門の受賞にふさわしい。読者としての故・米原万里(昶の長女)との出会いをはじめ、本書誕生のきっかけとなった数々の偶然や幸運があったことを、著者はあとがきで述べている。米原万里にも匹敵する見事な表現力をもつ著者の受賞が、新たな出会いを広げていくことを心から期待したい。
玄田 有史(東京大学教授)評
鶴見 太郎(東京大学大学院総合文化研究科准教授)
『ユダヤ人の歴史 ―― 古代の興亡から離散、ホロコースト、シオニズムまで』(中央公論新社)を中心として
いま求められている本、という決まり文句は、この本にはあてはまらない。
著者は、時代の寵児などではない。2023年10月7日があったから彼の作品の価値が高まったのではない。『ロシア・シオニズムの想像力――ユダヤ人・帝国・パレスチナ』(東京大学出版会、2012年)や『イスラエルの起源――ロシア・ユダヤ人が作った国』(講談社、2020年)をはじめとする帝国ロシアのユダヤ人たちの歴史と思考を、社会学的センスを随所に織り込みながら丹念に追ってきた長年の研究があったからこそ、時代の急変にも対応できている。この点で、著者の研究は時代の後を追ってきたのではなく、時代の先を歩いてきたといえるかもしれない。
本書に記されているように、イスラエルの非道はあの日に始まったわけではない。そして、ユダヤ人の歴史はホロコーストやイスラエルの建国に集約されるわけでもない。虚心坦懐にユダヤ人の歴史をできるだけ長くたどることが、もっぱらユダヤ人たちが中心となって運営されている国家の現在の背景を知るためには、どうしても必要である。3000年のユダヤ人たちの歴史をわずか300ページ強で知ることができる本書が日本語で登場したことは、それゆえ僥倖だと感じられた。
それにしても、近現代史の専門家が古代史から中世、近世も含めてユダヤ人の歴史を書き切ったことに、もっと日本の読者は驚いてよい。歴史学が細分化するなかで、一人で通史を書いた心身の強靭さと、先達たちに各章の「査読」を依頼する謙虚さにも敬意を表したい。
本書は、ある金曜日の深夜、アメリカのブルックリンで突然、見知らぬ正統派ユダヤ人の家の電気を消しにいった経験から始まる。安息日(シャバット)には労働(火をおこしたり、電気を消したりすることも労働なのだ)をしてはならないというユダヤ教の戒律を真面目に守っている人たちは現在も多い。
読み進めるにつれて、カバラー、神秘主義、ハシディズム、ハスカラー、シオニズムといった基本用語だけではなく、スピノザ、モーゼス・メンデルスゾーンなどの歴史に名を残したユダヤ人思想家の背景や、ユダヤ人が金融や学問の世界に多い理由、イスラエルにチーズバーガーが売られていない宗教的理由も含め、読者の歴史把握力をじっくりと複層的に鍛えていくことも怠っていない。「今日の国際政治に囚われすぎると、ユダヤ教とイスラームは犬猿の仲であると錯覚するかもしれない。だが少なくとも宗教のあり方について、キリスト教とユダヤ教の類似性よりも、イスラームとユダヤ教の類似性のほうがはるかに高い」という記述にもみられるように、現代社会が作り上げた読者の錯覚をほどいていく叙述も多い。
本書の終わりには、私たちが報道で最も目にするユダヤ人であろうヴォロディミル・ゼレンシキー(「ゼレンスキー」と呼ばれている元俳優のウクライナ大統領のこと)、そしてベンヤミン・ネタニヤフの人生に対する解説も読むことができるが、これは、本書に結晶化しているような地道な歴史研究があってこそ可能だと思う。
藤原 辰史(京都大学教授)評
師田 史子(京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科助教)
『日々賭けをする人々 ―― フィリピン闘鶏と数字くじの意味世界』(慶應義塾大学出版会)
人生のある局面で得た経験や感覚が、やがて自分のなかで重要な位置を占めるようになると同時に、謎に満ちた問いとして立ち上がってくる。その問いをどこまでも手放さず、どれほど時間と労力を費やしてでも解こうと試みるとき、その途方もない努力の結晶は、おのずと一個の文体と思想とをかたちづくる。師田史子『日々賭けをする人々』は、まさにそういう書物である。
本書の探究は多面的だ。まず序盤では、賭博を軸に近現代フィリピン史を掘り下げた一書としての顔を見せる。16世紀、スペインの植民地となった当初から、国家は賭博を規制・管理する術をさまざまな仕方で模索してきた。賭博の経済がいかに大きく、また複雑であるか。賭博の営みを統治することが、いかに重要で、また困難であるか。著者の師田はこれらのマクロな分析に基づいて、今度はミクロな探究に分け入っていく。すなわち、日々賭けをする人々は実際のところ何をしているのか、なぜ人は賭けるのか、そこにはどんな意味があるのかという、本書の前景を成す問いである。
現実逃避、実社会の不確かな体験の予行演習、あるいは疎外的状況の昇華といった合理的な機能を見出すことで、賭博をすることの意味を説明する理論は数多い。しかし、師田はその種の理論に対して一定の距離を置いている。なぜなら、そうやって日常と賭博の間に明確な境界線を引き、日常に対する副次的な機能という観点からのみ眺めるならば、ほかならぬ日常の一部としての賭博の内実が捉えられなくなるからだ。
本書は、日常の生活のなかに息づく賭博のあり方に強く焦点を合わせている。それによって見えてくるのは、ひとつには、人々が勝負をし合い、賭けの予想や結果をめぐって語り合うことを通じて、社交やコミュニケーションの場が形成される次第、また、そのなかで、合法・違法という観点とは異なる独特の価値観や倫理観が醸成される次第である。
そしてもうひとつは、賭けることによって世界に働きかけ、世界と戯れようとする、人間の危うくも切実なありようだ。予想し、賭け、結果に直面して考察し、それを踏まえてまた予想する――このフィードバック・サイクルのなかで、人間は偶然を乗り越えようとしつつ、偶然によって驚かされることも望んでいる。すなわち、世界に意味を求めつつ、意味から逃れようともしている。人間のそうした不可解さないし面白さに接近するとき、師田の探究は具体的なフィールドワークの現場から、現実性と偶然性と運をめぐる普遍的な思考へと踏み込むことになる。これも本書の読みどころのひとつだ。
彼女は賭博を、人間の人間らしさを最も鮮明に映し出す営為として捉える。そして、賭博を通して世界と結び合う人間の諸相を、社会の構造にも個人の心理にも還元することなく、深く繊細に描き取ってみせる。我々はそこに、「人間とは何か」という根本的な問題に対して臆することなく、一冊の書物というかたちで答えようとする、ひとりの研究者の勇気と迫力を認めるだろう。本書の読後に残される、人間という存在に対する生々しい手触りは、その大きな挑戦に関して著者が重要な部分で成功を収めたことを証明している。
古田 徹也(東京大学准教授)評
以上