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ニュースリリース
  • (2024/11/12)

第46回 サントリー学芸賞 選評

〔政治・経済部門〕

牧野 百恵(日本貿易振興機構アジア経済研究所開発研究センター主任研究員)
『ジェンダー格差 ―― 実証経済学は何を語るか』(中央公論新社)

 「世界経済フォーラム」が発表している「ジェンダー・ギャップ指数」の2023年の指数では、日本は調査対象国146カ国のうち125位で、G7でも東アジア太平洋諸国19カ国の中でもいずれも最下位である。日本のジェンダー格差が大きい理由は、政治と経済の分野で極端に指数が低くなっていることにある。人口減少で労働力不足が深刻化し、女性の社会での活躍が今後の経済成長に必須になっている日本で、ジェンダー格差は早急に解消されなければならない。また、経済成長のためだけでなく、人権の観点からも当然進めるべきものだ。
 ジェンダー格差の解消にはどのような政策が効果的だろうか。ジェンダー差別を禁止する法律を作ればジェンダー格差を解消することができるのだろうか。一見ジェンダー格差を解消するように見える政策が、逆に格差を拡大してしまうことはないだろうか。効果的な政策を行うためには、ジェンダー格差の原因を明らかにすることが重要である。近年の経済学では、格差の原因や政策効果の因果関係を明らかにする研究が世界中で行われている。
 本書は、ジェンダー格差の経済学について、著者自身の貢献も含めて非常にわかりやすく包括的に紹介した書物である。この分野は、2023年のノーベル経済学賞を受賞したクラウディア・ゴールディン教授の研究で一般にも注目を浴びた。本書もゴールディン教授による経済発展と女性の労働参加の関係の説明から始まる。そして、女性の労働参加による家庭内の交渉力の強化、男女の性比が与える影響、男女平等意識と歴史、ステレオタイプとクォータ制の議論、社会規範の影響、結婚出産、育児休業制度、心理学的影響など、ジェンダー格差を議論する際に必要な経済学の考え方とエビデンスについて幅広く網羅している。
 著者の専門は開発経済学であるが、途上国の事例だけでなく、先進国や日本における制度とその影響に関する実証研究を丁寧に紹介している。著者が開発経済学の専門であることは、ジェンダー格差の書物を書くうえでメリットになっている。途上国の研究をよく知っていることで、極端な格差が存在している国、もともと同じ文化圏だったのに植民地支配によって偶然異なる制度下に分かれた国などの特徴を駆使して因果関係を明らかにした研究を幅広く知っているのである。ジェンダー格差を歴史的・地理的に幅広い視点で見ることができるので、さまざまな思い込みから逃れて客観的な分析が可能になっている。
 意外な事実も因果関係の分析で明らかになる。女性の賃金上昇は家庭内暴力を減らすことも増やすこともあり、それは離婚のしやすさに依存する。育児休業取得者のテニュア審査期間延長という研究者のための制度が、男女格差を拡大した。女性研究者が休業中は育児に集中したのに対し、男性研究者は研究を続けたからだ。ジェンダー格差を解消するには、性別役割分担に関するステレオタイプや社会規範を改善することが重要だ。
 ジェンダー格差に直面してきた著者が、その解消のための熱い思いを背景に、冷静で客観的なエビデンスを示すことで、本書の説得力を高めている。「冷静な頭脳と温かい心」で書かれた本である。 

大竹 文雄(大阪大学特任教授)評

〔政治・経済部門〕

萬代 悠(法政大学経済学部准教授)
『三井大坂両替店(みついおおさかりょうがえだな) ―― 銀行業の先駆け、その技術と挑戦』(中央公論新社) 

 本書は、我々の江戸時代のイメージを大きく変える書になるだろう。1691年(元禄4年)に三井高利が開設した三井大坂両替店に、本書は焦点を当てている。今に残る三井家記録文書などを丹念に読み解き、江戸時代の銀行業の実態を解明している。本書は、江戸時代の金融システムにおける新事実を明らかにした点で、経済現象を分析した優れた書として、政治・経済部門のサントリー学芸賞を授与するにふさわしい。それだけにとどまらないところが、本書の魅力の1つでもある。
 三井大坂両替店が最初に手掛けたのは、江戸幕府に委託された送金業務だった。当時の経済の中心は大坂で、幕府のある江戸との間で、貨幣運搬のリスクを回避する必要があった。そこで、為替手形を使って、貨幣を運ばずに貨幣を運んだも同然の状態を実現することに成功した。今日の為替取引に通じるシステムは、人類史上、13世紀の北イタリアにもあって、江戸時代の日本が起源ではないが、その時代に為替取引が発展する様を本書は描いている。
 江戸時代の為替取引については、経済史研究における蓄積がある。本書の新規性は、三井大坂両替店が送金業務を端緒に今日の銀行業に通じるビジネスモデルを確立した過程を、新たな視点で明らかにした点である。特に、三井が採用した信用調査の技術に注目したことによって、本書の読者をより一層惹き付ける。
 今でも、お金を借りたり、クレジットカードを使ったりする際に、信用調査はある。ただ、現代では年収を客観的に証明することは、税務書類などで容易にできるが、江戸時代にそんな仕組みはない。また、担保が必要な場合に、担保価値を客観的に測ることは、今日では容易でも、江戸時代には簡単にはいかない。
 そんな時代に、三井大坂両替店が編み出したのは、担保価値を測る手法と借入を申し込む客の素行調査である。担保となる土地や家屋を、立地や人流などを地道に調べて独自に価値を算出した。また、当人の人格の良し悪しを評判などから判断して、融資の可否を決める資料とした。それらが、文書の中に残っており、本書の中でも披露されている。
 特に、人格や家族関係に関する記述は、金融の話にとどまらず、当時の法制の拘束力、社会風俗や文化、人々の倫理観をも描写しており、読み応えがある。これが、前掲した本書の魅力の1つといえる。
 本書によると、三井家に融資を申し込んだ住友家は、当時骨肉の相続争いをしており、火災で焼けた屋敷の再建もままならない状態であることや、当事者が隠居し家督を幼い子に譲るが、その隠居理由が不品行だったことが信用調査に記されていた。今や三井住友フィナンシャルグループとなった両家だが、当時の三井家は、それを踏まえて住友家とは契約を避けるという判断をしたという。
 江戸時代の人々は、誠実でモラルが高いというイメージがある。しかし、本書で取り上げられた信用調査を読むと、不誠実な人はままいて、だからこそ信用調査が必要だったことが浮かび上がる。見事な分析であり、その含意は金融史の域を超えている。
 萬代悠氏は、本書の前に『近世畿内の豪農経営と藩政』(塙書房)も執筆しており、同時代の農業、金融業とその幅を広げ、経済史の解明に大きく貢献している。この探究力が生かされた続編の刊行が待ち望まれる。 

土居 丈朗(慶應義塾大学教授)評

〔芸術・文学部門〕

片岡 真伊(国際日本文化研究センター准教授、総合研究大学院大学准教授(併任))
『日本の小説の翻訳にまつわる特異な問題 ―― 文化の架橋者たちがみた「あいだ」』(中央公論新社) 

 米英における日本文化の受容は、国によって環境が異なり、時代ごとにさまざまな変化を見いだすことができる。日本文学の英訳というエリアにしぼって見ると、イギリスが19世紀末から戦間期に先鞭をつけた。アーサー・ウェーリーが『日本の詩歌』(1919年)と『能楽』(1921年)に続き、『ザ・テール・オブ・ゲンジ』(『源氏物語』)6冊の完訳を1919年から1933年にかけてロンドンで刊行したことが土台となり、ジャパノロジストの若い世代が次々と育ちはじめた。近年指摘されるように、担い手はウェーリーも代表するようにオックスブリッジ(=オックスフォード大学とケンブリッジ大学)出身者で、戦火に倦み当時の英国社会に対し一種の疎外感を抱く文化的エリートたちが多かった(John Walter de Gruchy, Orienting Arthur Waley: Japonism, Orientalism, and the Creation of Japanese Literature in English)。
 本書は、第二次大戦後GHQ/SCAP(連合国軍最高司令官総司令部)に勤務するかたわら同時代の日本文学に触れ、後に日本文学英訳出版の屋台骨を作った人々と、彼ら(ほとんどすべてが男性)を支える出版機構、さらにその成果として1950年代半ばから70年代にかけてアメリカおよびイギリスで刊行された数多くの英訳日本文学の選定から校閲まで含めた編集過程と同時代の評価を実証しようとする力作である。これらのことを著者が論じるのに用いる当時の新聞雑誌記事や単行本に加え、出版業界のいわばバックヤードで制作された膨大な量の契約書や報告書類、作者と翻訳者、翻訳者と編集者、そして編集者と社内マーケティング部門との間に交わされた書簡などの一次文献が余すところなく駆使されている。なかでも、1950年代後半にニューヨーク市に本社を置く出版社クノップフ社が牽引した日本文学翻訳プログラムの詳細を語る史料群の精査に基づく新知見が夜空の星のごとく散りばめられている。
 当時クノップフ社の編集者で日本文学の英訳プログラムを一手に引き受け強力に進めていったハロルド・シュトラウス氏はじめ同社の出版現場で働いた人々の記録は、テキサス大学オースティン校のハリー・ランソム・センターに保管されている。著者がその宝庫へ足を運び調査を行なうなかで、戦後英訳された日本文学の姿を初めて立体として見いだし、その生成の流れを谷崎潤一郎『蓼喰う虫』『細雪』、川端康成『千羽鶴』『名人』、三島由紀夫『金閣寺』など商業的にも成功し戦後海外における日本文化のイメージを一変させた作品に即して俯瞰している。
 編集者を中心に組まれたとする二十数名のクノップフ社員の動線を活写する一方、翻訳の立役者であったエドワード・G・サイデンステッカー氏の日記など個人の未紹介証言を有効に織り込むことによって、「アッパー・ミドル・ハイブラウ(=中流教養人)」という当時想定された読者層の嗜好と属性について明らかにしていることも、広い意味では読書論や書籍文化論などへの波及を期待させる。日本という視座を離れ、「翻訳」が担う役割を政治や社会動向から根本的に検証し直す一助になることを確信した。 

ロバート キャンベル(早稲田大学特命教授)評

〔芸術・文学部門〕

呉 孟晋(京都大学人文科学研究所准教授)
『移ろう前衛 ―― 中国から台湾への絵画のモダニズムと日本』(中央公論美術出版)

 昭和初期に中国から日本に留学していた画学生たちは、日本でなにを学び、なにを本国に持ち帰ったのだろうか。ヨーロッパ絵画の革新に刺激された日本の画家たちによる「前衛」に触れた彼らは、それをどのように受け止めたのか。この本は、日本を経由した「絵画のモダニズム」が中国や台湾でどのように展開したのか――あるいはしなかったのか――を、現存する作品が極めて少ない中で、日本語と中国語の文献を渉猟して複数の角度から明らかにした画期的な力作である。
 モダニズムの越境性はかねてより議論されており、「複数のモダニズム」という考えも定着してきた。本書ではそれを敢えて「移ろう前衛」と表現した点が面白い。そもそも理論としてのモダニズム絵画は、視覚の普遍的価値を追求するもので、所在なく「移ろう」ことをよしとしない。これに対し、実践としてのモダニズム絵画は決して直線的に展開せず、常に現実との交渉や妥協を経て生み出された。モダニズム絵画の最前線である西欧でもそうなのだから、その概念が移植された日本や、「日本的前衛」が導入された中国や台湾においては言うまでもない。「前衛」はその時の社会や政治の状況によって「移ろう」ことを余儀なくされるものだった。
 三部構成で14章と4つの付論からなる本書もまた、直線的には進まない。中国人留学生の足跡に加え、中国の主要都市における近代美術の胎動や、画家たちによる出版物や展覧会、さらには論争など、章ごとにめまぐるしく主題が変わる。その中でも、広東生まれの李仲生は「移ろう前衛」の具体例として非常に興味深い。彼は戦前の東京でシュルレアリスム絵画を発表し、国共内戦時に移り住んだ台北では抽象画を描きつつ、評論家・教育者としてモダニズムを唱道する。だが国民党政権下では「前衛」への風当たりが強く、彼は田舎で長年隠棲した後、晩年に「モダニズム絵画の先駆者」として台湾の中央画壇へと復帰するのだ。一冊の書物としては、李を中心に据えた作家論の方が、読ませるものになったかもしれない。
 だが本書が、その冷静な語り口とは対照的に、ある種の迫力を持って突きつけてくるのは、この主題は単純な作家論や通史にまとめられるようなものではないという事実である。その難しさは、台北に的を絞った第三部からもよく分かる。そこでは、本省人と外省人の対立や駆け引きを経て戦後台湾の画壇が成立し、民主化の動きとともに「前衛」が半ば強引に「コンテンポラリー・アート」へと衣替えしていった様相が明らかにされる。摩擦に満ちた中国と台湾における「前衛」の歩みは、多岐にわたるトピックを断片的に扱うことから出発せざるを得ない。「移ろう前衛」は「儚い前衛」でもあったのだ。そのこと自体の歴史性を描き出した点に本書の白眉があるといえる。
 翻って本書は、「日本近代美術」や「戦後日本美術」について考える際にも重要な示唆に富む。近年この分野の研究が盛んだが、複数の言語による調査の難しさもあってか、東アジア全体を俯瞰して見るような研究は極めて少ない。そもそも「戦後日本美術」をカテゴリー化できるのも、敗戦後の日本がアメリカの傘下に入り、「戦前」からのモダニズムの流れをなんとか「戦後」に接続することができたからである。多くのアジア諸国においては、第二次世界大戦の終結は新たな戦争の始まりでしかなかったことを考えると、本書は結果的に「戦後日本美術」の成立条件をも浮き彫りにする名著となっている。 

池上 裕子(大阪大学教授)評

〔社会・風俗部門〕

柴田 康太郎(早稲田大学総合人文科学研究センター次席研究員)
『映画館に鳴り響いた音 ―― 戦前東京の映画館と音文化の近代』(春秋社)

 まさに書名通り。映画館にどんな音が鳴り響いていたか。それだけ。だがこの「それだけ」がとてつもなく大変なのだ。映画はサイレントに始まり、トーキーに移行していった。サイレントといっても音のない映画を皆で静かに観ていたのではない。むしろ喧(やかま)しかった。映画館には活動弁士や楽士が居た。映画好きや音楽好きならそのくらいまでは知っている。では東京で初めて映画が一般公開されたのは?1897(明治30)年に神田で。もちろんサイレント。すると東京初のトーキー映画の興行は?1929(昭和4)年に浅草と新宿で。その間、何と32年。日清戦争直後から世界大恐慌の始まる年にまで及ぶ。大正期がすっぽり入る。
 文化に教養、娯楽の趣味、その内容も規模も、激変と拡大と多様化を繰り返してゆく。そういう時代の中心に躍り出て居座っていたのが映画。とすれば、無声映画館に鳴り響く音が、活弁に楽士という大雑把なイメージだけで掴まえられる筈はない。映画の種類や中身もだが、上映に合わせて付される映画館でのライヴのパフォーマンスにも限りなき変遷があったに違いない。ところがその詳細となると霧の向こう。確かに活動弁士を巡る浩瀚な研究もあれば、映画館の楽士のありさまを綴る本もなくはなかった。でも、明治から昭和までの事の移り変わりを、年代記的に濃(こま)やかに、しかも学問的な整理のツボを外さずに追い詰めて、歴史の総体を見せてくれた書物は決してなかった。本書が現れるまでは。
 驚くべき研究だ。無声映画そのものもずいぶん失われているし、ましてやそれが上映されたときの映画館の音の有様なんて遠い彼方に消えている。調べるにも限界がありすぎ。しかし著者は、一次資料の発掘に尋常ならざるエネルギーを注ぎ込んで、難関を見事に突破。当時の雑誌や新聞の記事の片言隻句(へんげんせきく)から、ちょっとした広告までを漁り尽くし、組み合わせ、神田や浅草や新宿の映画館の大昔の音の風景を生き生きと再現する。ジンタが鳴る。オーケストラに発展する。どこの映画館に楽士が何人いて、どんな曲を演奏したか。映画の場面に合わせてどんな曲をどのくらい変えていたものか。既成曲ばかりか。オリジナル曲は?そういうことが年々刻々どう変わったか。活動弁士がヴァイオリン弾き語りをした!銀幕の横で歌手が歌った!洋画なら洋楽だけれど邦画なら邦楽も。浪曲が、琵琶楽が、義太夫が、新内(しんない)が、銀幕と共演した!
 何しろ明治から昭和初期の日本人の音楽趣味は圧倒的に伝統邦楽だ。映画館に邦楽が鳴って当然。その深度と持続度と広がりを明らかにしたのは本書の勲(いさおし)。無声映画時代にオリジナルな楽曲を映画館での生演奏用に提供していた作曲家・松平信博の仕事を明らかにしたのも、日本映画音楽史を書き換える壮挙だ。無声映画館はとても長い間、映像と語り芸と邦楽と洋楽によって織り成される混沌たる劇場だった。本書はその総見取り図を初めて示し得た。真打登場である。そして本書の後ろの三分の一はトーキー初期に踏み込む。この部分には膨大なこの先がなくてはならない。今後に期待する。 

片山 杜秀(慶應義塾大学教授)評

 

〔社会・風俗部門〕

渡辺 将人(慶應義塾大学総合政策学部、大学院政策・メディア研究科准教授)
『台湾のデモクラシー ―― メディア、選挙、アメリカ』(中央公論新社) 

 2024年、台湾総統選が実施され、民進党が勝利し、頼清徳政権が誕生した。独立志向の強い候補が当選した場合、中国が武力行使に走るのではと危惧する声はかねてより囁かれていたが、案の定というべきか、新政権発足後、中国政府は大規模な軍事演習を繰り返している。
 本書は、こうして緊迫した状況に置かれている台湾についての理解を促す。米国研究者として知られる著者が、なぜ台湾について書いたのか、いぶかしむ向きもあるかもしれない。実は著者は米国留学後、現地で米国連邦議会やニューヨーク民主党の大統領選・上院選本部で働いた経験を有する。そこで台湾の外交官やローカルメディアのロビイング活動に触れ、あるいは中華系市民の票固めに携わったことから関心を芽生えさせて以来、台湾研究は10年に及ぶ。加えて日本でテレビ局の政治部記者として働いた経歴を持つ著者は、メディアの振る舞いを批判的に検証できる知見も備えている。米国との関係を視野に入れつつ、特にメディアと選挙に注目して台湾のデモクラシーを考察した本書は、そんな著者によって、まさに書かれるべくして書かれたものだ。
 台湾のデモクラシーは若い。国民党の一党独裁が長く続き、総統が直接選挙で選ばれたのは1996年になってからだ。民主化してまだ日の浅い台湾が、しかし、2022年の英『エコノミスト』誌の民主主義指数ランキングで世界10位に選ばれ、アジアでは日韓を押さえて首位に立つ。そんな「大躍進」を可能とした理由を求めて、著者は台湾の現代史を丁寧に読み直してゆく。
 台湾の社会的特徴として構成の複雑さがある。大陸出身の家系か、古くからの台湾人か、漢民族か、それ以外か、少数民族か、どの言語文化に属するか…。多様なアイデンティティで細分化された社会は通常なら統合に困難を来すはずだが、台湾のデモクラシーは、中・台ナショナリズムを両極に配置し、その「内」側に「台湾人」であることを新たなアイデンティティとする中間層を厚く育て上げた。本書が描き出すその軌跡は、社会的分断が秩序の「外」側に逸脱する極右・極左勢力を生み出しがちな、日本を含めた他の民主主義国家にとって学ぶべき点が大いにある。
 著者は訪台しての調査もしばしば実施しており、それが著者に危機的状況へ立ち向かう台湾デモクラシーの勁(つよ)さを実地で実感させる機会となった。こうして書き上げられた本書は、日本では自称リベラルが繰り返し口ずさむ「お守り言葉」(©鶴見俊輔)になりかけている感のある民主主義(デモクラシー)が、現実に働きかける確かな力を備えた理念であると気づかせてくれる。たとえば、同じ言葉を話し、同じ文化的ルーツを共有する「中華圏」に成熟した民主国家が成立しうるという事実は、中国の権威主義的統治者にとってはなによりの脅威だろう。情報統制をくぐり抜けて台湾デモクラシーに共感共鳴する動きが国内に広がれば体制を足元から揺るがすことになりかねないからだ。
 本書が、今回の受賞を弾みとして、台湾有事がデモクラシーをめぐる攻防戦でもあることをより多くの読者に再確認させるとともに、日本のデモクラシーについて省みる機会をもたらすことを願う。 

武田 徹(ジャーナリスト・評論家)評

〔思想・歴史部門〕

小林 亮介(九州大学大学院比較社会文化研究院准教授)
『近代チベット政治外交史 ―― 清朝崩壊にともなう政治的地位と境界』(名古屋大学出版会) 

 わが家には仏壇がある。だから僧侶がお経をあげ、家人がお布施をするのは、毎月のあたりまえではあった。そんな寺院と檀家に、上下も優劣もない。寺の切り盛りは住職の裁量だ。ところがある日突然、ある檀家が寺院の区画から経営まで、西洋じこみの法律で一切とりしきると決め、よろず言うことを聞けという。住職はじめ、お寺こぞって周章狼狽、近隣の人々に助けを求めた。これまたあたりまえの展開かもしれない。
 20世紀初めからこのかた、チベット・中国の関係史を前者の目線で、下世話に言い表すとこうなる。もちろん卑近に失し、論理にも解説にもなっていない。しかしこの関係を学問的に論証するのは、ほぼ不可能だった。
 当時のチベット仏教と中国政治に対する乏しい理解、現在もつづく亡命チベット政府の運動と中華人民共和国の政策、さらには言語習得の困難、史料と知識の偏在など、すべてが前途にたちはだかる。
 下世話な説明でお茶を濁すか。それが論外だとすれば、学術的に寺院の理念と言い分を精細に明らかにするか、さもなくば、檀家の経歴と変容をつまびらかにするか。いわば二者択一が関の山だった。
 つまり前者はチベット学、後者は中国史学に相当する。いずれも日本の研究は世界最高水準とはいえ、両者は必ずしも切り結ぶことなく、なかんづく関係の転換を学術的に解明するには限界があった。
 敢然と択一を拒否し、限界に立ち向かったのが、著者の研究である。チベット学の蓄積を背景に、チベットをめぐる政治的動向を跡づけつつ、同時に中国史研究の成果を生かして、ダライ・ラマ13世政権の政治外交の復原に成功した。当時の日本との関係にも、探究の目配りを怠らない。
 西洋由来の「国民国家」「領土主権」概念のもと、支配をすすめる清朝・中国こそ、チベット最大の脅威と化す。英領インド・西洋に対する依存は、欧米の煽動・誘掖ではなく、ダライ・ラマ自身の意思・選択だった。
 この20世紀初頭の転換が、東アジアの歴史と現代を分かち、そしてつなぐ出来事である。なぜチベットが現在のような政治的地位なのか、中印国境が定まらないのか、中国の民族問題が解決しないのか。その淵源をなす歴史過程であり、本書がおよそ世界ではじめて実証的、客観的に描き出した。
 外交史を研究するには、各国各地の外交文書を探索解読する、いわゆるマルチ・アーカイヴァル・アプローチがあたりまえである。しかし時に、これが難しい。閲覧不可能な史料があるのは歴史学で当然ながら、亡命チベット政府の前身たるダライ・ラマ政権の政治外交関連文書はその最たるものだろう。系統的にまとまって入手、閲覧するすべはない。著者は各国各地に散在するチベット語史料を蒐集し、あわせてその所在のゆえん、ひいてはその国との関係を考察するなど、多角的な調査を通じ、ようやくあたりまえを実現させた。
 あたりまえを習い、疑うのが学問の基本である。しかし何事も基本に徹するのが難しい。実践できた研究こそ非凡である。本書はそんな非凡の所産ながら、それで終わりではない。非凡をあたりまえに還元する作業が残っている。冒頭の下世話な話法に代わる一般的な論述こそ待ち遠しい。著者にしかできない任務になろう。 

岡本 隆司(早稲田大学教授)評

〔思想・歴史部門〕

中村 達(千葉工業大学未来変革科学部助教)
『私が諸島である ―― カリブ海思想入門』(書肆侃侃房) 

 「現代思想」なるものをかりに地図のかたちで思いえがこうとするとき、その世界地図にはいたるところに欠落があり、空所があり、空白がある。たとえばアフリカ大陸の大部分がそうした空所となるだろう。また南アメリカのかなりの地域も地図上の空白をかたちづくることになる。これに対してヨーロッパの一部たとえばフランスの思想地図には、ほんのちいさな河川や、丘にもひとしい地上の突起まで描きこまれて、地表のわずかな変容すら自然史的な一大事件であるかのように喧伝され、地図はせわしなく更新されてゆく。
 カリブ海に浮かぶ島嶼も、私たちの「世界地図」における欠落部分である。すくなくとも本書の登場以前には、ほとんど白地図にひとしい状態であったと言ってもよいのではないだろうか。現代思想の地理的な布置にかんする私たちの「常識」を、本書は大きく塗り替えてゆく。その意味で、『私が諸島である』という奇妙な標題を与えられたこの書は、かぎりなく挑戦的で、私たちを挑発しつづける。
 カリブ海文学を専攻し、西インド諸島大学で博士号を取得した著者は、留学当初、カリブ海文学をハイデガーやラカンといった思想家をとおして分析することを目ざしていたよしである。草稿を見せたとき、指導教員のエドワーズ教授は「なぜハイデガーでなければならない?なぜラカンでなければならない?」と問いかけたという。そこにはおそらく、著者自身も自覚していなかった「西洋中心主義」があった。カリブ海にも「ハイデガー」が生まれ、ハイデガー批判も展開され、ラカンにも比すべき独自な理論が誕生している。カリブ海でも独創的な思想が育まれて、世界を読み、世界を読みかえ、世界をつくりかえようとしている。それはカリブの文化と思想の「クレオール」性を刻みこまれ、そのクレオール性を、むしろ利点ともしてゆく思想である。その思想はまたどこかに到達しようとする思考の暴力性をまぬがれ、他者を「標的」とすることなく、むしろ他者を抱きとめ、他者と共にカリブの海に浮かび、潮の干満に揺られて海の只中にたゆたいながら、他者とたがいに手を取りあうことを可能とする思考である。開放的で流動的な生のかたちを、あたかもそれ自体が水鏡であるかのように、カリブ海は映しとっている。そこに流れているのは、たとえばギリシアという起源の民族、ゲルマンの森という誇り高い始原を有して単線的に流れてゆく時間ではなく、カリブ海に立つ波の動きを移しているかのように、複雑なリズムを刻みつづけて展開されてゆく複線的な時間なのである。
 1492年に生起した事件、コロンブスによるいわゆる「発見」以来、西洋近代の剥き出しの暴力にさらされつづけ、搾取されつづけてきたカリブ世界は、以後400年にわたって、民族の絶滅を目撃し、過酷な奴隷制度や年季奉公制を経験してきた。そのカリブ海でこそ、白色人種を人間と等値し、ヨーロッパを世界そのものとみなす思考に抗し、流動性と混淆性とを高唱する思想が編みあげられている。それだけではない。そこでは現在、フェミニズムやクィア・スタディーズすら、自生的なかたちで創造的な展開を見せている。そうした事実を生き生きと伝えてくれる本書は、この国の人文学にあってもっとも重要な文献のひとつとなると言っても過言ではない。 

熊野 純彦(放送大学特任教授)評

 

以上

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