〔政治・経済部門〕
中井 遼(北九州市立大学法学部准教授)
『欧州の排外主義とナショナリズム ―― 調査から見る世論の本質』(新泉社)
経済力や軍事力を尺度にすればアメリカに到底及ばなくなっても、人権や環境への配慮といった理念とその実践については世界をリードしている――これが戦後のヨーロッパが形成してきたイメージであり、EUを通じた超国家的統合の試みとあわせて、世界からの注目と好意的評価を集めてきた点であった。
ところが近年、このようなイメージと評価を覆しかねない事態が生じている。2015年から16年にかけて生じた欧州移民危機においては、開明的で平等性の高い社会を目指してきたヨーロッパ諸国が、域外からの移民に門戸を閉ざそうとする姿勢を強めた。同じ年にはイギリスが国民投票によりEU離脱を決めたことも、大きな衝撃を与えた。
しかし、冷静になって振り返ってみれば、各国における反移民感情や反EU感情の高まりは危機の前から起こってきたことであった。コロナ禍で一時的に鳴りを潜めているが、それらが消え去ったわけでは決してなく、現在進行形の事象である。
だとすれば、このような感情がヨーロッパ諸国に暮らす人々の間になぜ強まっているのかを、より深く検討する必要があるだろう。
受賞作『欧州の排外主義とナショナリズム』において中井遼氏は、近年の政治学において著しい方法的発展を見せているサーヴェイ実験に基づくデータと、従来から用いられてきた大規模世論調査である欧州社会調査や各国の世論調査データ、さらにラトヴィアなど一部の国についての現地調査を組み合わせつつ、このテーマに取り組んでいる。
分析を通じて、しばしば経済的な不安や不満と結びつけられがちであった反移民感情は、むしろ反EU感情と重なり合いつつ、自らの暮らす国や社会の文化が壊されてしまうのではないかという懸念に源泉を持つこと、そのような感情は学歴や社会経済的地位が高い人々や極右政党以外の政党を支持する人々の間にも珍しくない程度に広がっていることが明らかにされている。表面的な現象以上に事態は深刻だといえよう。
オンライン・サーヴェイを多用することで、外国の有権者の意識について自ら新しいデータを収集し、それを適切な方法により分析して従来にない知見を得るという点で、本書は大きな学術的成功を収めている。さらに、データ分析に馴染みのない読者に向けた丁寧で直観的理解が得やすい説明や図表、政治学で用いる諸概念の明確な定義など、専門外の読者を意識して叙述することで、知見を社会に開こうとする意識も強く感じさせる。
本書に対しては、地理的には同じヨーロッパでも、置かれている国際環境が異なる諸国を一括りにして良いのか、より詳細な現地調査などを踏まえた検討があればさらに理解は深まったであろうし、最終章における日本への含意にはやや飛躍があるのではないか、という課題も指摘できる。
しかし、批判的な思考や議論を誘発することは間違いなく良書の必要条件であり、本書の挑戦がいかに有意義であるかを逆に示している。国際的な研究論文と専門外にも広がりのある著書の双方で、中井氏には今後さらにご活躍いただきたいと強く願う。
待鳥 聡史(京都大学教授)評
〔政治・経済部門〕
中西 嘉宏(京都大学東南アジア地域研究研究所准教授)
『ロヒンギャ危機 ―― 「民族浄化」の真相』(中央公論新社)
東南アジア圏でバングラデシュと国境を接し、「秘境」とも呼ばれたミャンマー。2017年、その西の辺境にあるラカイン州で、国軍によるイスラーム系少数民族ロヒンギャへの掃討作戦が行われた。多数のロヒンギャの人々が殺害され、大量の難民がバングラデシュへ押し寄せた。比較政治の対象に馴染みにくい独特の発展を遂げたミャンマーの政治情勢は、アウンサンスーチーというリーダー、長らく独裁政権の中核にあった国軍、多様な少数民族からなる社会構造が複雑な化学反応を起こしている。深く入れば入るほど、正確な状況把握は難しい。
このような地域をフィールドとした中西嘉宏氏は、現地調査を繰り返し、そこでしか入手できない文献を収集し、軍人・政治家へのインタビュー、ジャーナリストとの交流、そして難民キャンプなどで人々の談話を聞き取ってきた。それらを十全に踏まえた本書では、ロヒンギャ問題という一般の日本人読者になじみの薄い対象を描くに際し、随所で明快な問いを立て、これに答えるという周到な構成をとる。
まず初めに「ロヒンギャとは誰で、その人口はいったいどれほどなのか」という問いがそもそも答えにくいものであることに、問題の奥深さを浮かび上がらせる。続いて、「長い軍事政権で、ロヒンギャを取り巻く環境はどう変わっていったのだろうか」という問いには、簡明に「国家による排除と管理の強化だった」と喝破する。この長い歴史があってこそ、民政移管の後に、かえって宗教対立が激化する。そこから本書の叙述は、一気呵成に、ロヒンギャ武装勢力の襲撃から軍の掃討作戦へと展開する。冷静ながらも人権への熱いコミットメントを隠さない中西氏は、掃討作戦と虐殺の真相を正確にとらえることがいかに難しいかを読者に強く訴える。「いったい何が起きたのか」という問いをなげかけた氏は、ドキュメンタリー映像を見ているかのような、現地の空気が吹き込んでくる筆致で、これに応ずる。そのため、読者は真相にたどりつけないとしても、実情を半ば肌感覚でつかみとることができるのである。
何よりも本書冒頭に掲げられた問いが、この問題の政治的核心である――「なぜスーチーは国軍によるジェノサイドを否定するのだろうか」。中西氏は、国際司法裁判所でのスーチーの弁論の政治的含意をくみ取り、その穏健かつしたたかなリベラリズムによって、国軍との正面衝突を回避しつつ、国際社会に問題のありかを訴えようとする意図を描き出す。このように優れた「国内政治勢力のバランス感覚」があったからこそ、2020年11月の総選挙でスーチー率いるNLDは大勝した。それは、現在われわれが直面する軍事クーデターを引き起こした。ロヒンギャ危機を国際的舞台でバランスよく対処したスーチーへの圧倒的な国民の支持と、その体制を承認できない国軍という構図こそ、本書を手に取りつつ、今後のミャンマー政治を展望する軸である。明快な問題設定、ドキュメンタリー風の視覚的要素を取り入れた筆致、あふれる人権感覚と政治の現場をどこまでも見通そうとするリアリズムは、一少数民族問題から、政治一般へと広がる豊かな洞察を生み出した。長らく読みつがれる地域研究の作品となるのでは、という期待とともに中西氏の次著を待ち望みたい。
牧原 出(東京大学教授)評
〔芸術・文学部門〕
川瀬 慈(国立民族学博物館人類基礎理論研究部准教授)
『エチオピア高原の吟遊詩人 ―― うたに生きる者たち』(音楽之友社)
芸術・文学部門の選考委員会でいつも話題になることに、「学芸賞」のキモは、「学」だけでなく「芸」も求められるところにあるという話がある。人文系の賞というと、重量級の研究書というイメージが強いが、そういうものばかりでなく、味のある文章で人を魅了するような著作も積極的に取り上げて人文学の奥行きを示すことも、この賞の役割だという意味である。近年は博士論文を単行本化した著作が増え、いささか「学」に偏りすぎた状況になっていることが問題化していたりもするのだが、そういう中で、この川瀬慈氏の『エチオピア高原の吟遊詩人――うたに生きる者たち』は、まさに「芸」の部分が高く評価されての受賞となった。
「アズマリ」「ラリベラ」などの名で呼ばれる、エチオピア北部で音楽を職能として活動する人々の姿を描き出した本であるから、学問領域で言えば文化人類学、民族音楽学といったあたりになる。この領域は言うまでもなく、われわれの素朴な感性や認識に忍び込んでいる西洋中心主義などの価値観の歪みを排除することが至上命題となるから、「学」となると、どうしても二重三重に防御をめぐらしたような議論になってしまい、そこに生きる人々の姿を活写するようなものにはなりにくかった。川瀬氏の著作は、まさにその正反対をゆくものであると言って良い。
圧巻なのは、川瀬氏が、仲間にしか通じない隠語でかたく結ばれた共同体に入り込み、とりわけ子どもたちとの間に親密な交流を作り上げてゆくあたりの、つねに川瀬氏自身の姿が前面に出てくる記述である。「学」の世界の言説ではなかなか見ることができないようなもので、何とも楽しげな雰囲気に満ちている。
もちろん、良い話ばかりではない。彼らが隠語で歌う即興的な歌の中で、川瀬氏自身が余所者として揶揄された話などもある。映像人類学が専門である著者が、家の軒先で歌い門付(かどづけ)を行うことを生業とするラリベラの人々の活動を追う記録映像を撮影していた時の話にいたっては、乞食のような姿が映像によって外国に紹介されることへの危惧をいだいた地元の人々が著者の撮影を激しく拒絶した話なども出てくる(この場面は著者の制作した『ラリベロッチ ―― 終わりなき祝福を生きる』という映像作品に収録されており、YouTubeでも見ることができる)。著者は楽しげなスタンスを取りつつも、「学」が直面している問題に、よりシビアな形で日夜向き合ってきたとも言えるのである。
実際、本書には、彼らの音楽を「再発見」して欧州に紹介したフランス人の音楽プロデューサーや、「アーティスト」として世界デビューを果たしたアズマリの話など、「学」にとっては「取扱注意」の話題もいろいろ出てくるのだが、「現場目線」を通すことでこうした問題もまた違った形で見えてくることを、本書は教えてくれる。
本書の最後には、コロナ禍で仕事の機会を失っているアズマリたちが、テレビ番組に出演し、手洗いやソーシャル・ディスタンシングを奨励する歌を歌ったという話が出てくる。しなやかに、またしたたかに生きてきたこのような人々の活動を捉えるやり方としては、「学」よりも「芸」の方が合っているのかもしれない。
渡辺 裕(東京音楽大学教授)評
〔芸術・文学部門〕
堀井 一摩(早稲田大学、津田塾大学等非常勤講師)
『国民国家と不気味なもの ―― 日露戦後文学の〈うち〉なる他者像』(新曜社)
看板に偽りあり?このインパクトに充ちた日本近代文学思想史において、「不気味なもの」なるフロイト心理学の術語が書物の枠組みを成しているかに見える。懐かしく根源的なのに、その時代の規範や政治的・社会的抑圧によって隠されてしまったものが、何かのきっかけで無意識の底から現れる。幽霊とか幻とか、曖昧なかたちをとって。それがひとつの定義だろう。ところが、そんなフロイト流から、本書が俎上に載せる「不気味なもの」はどんどん逸脱する。幽霊や幻よりも生々しい。「超不気味なもの」とでも呼びたくなる。たとえば妖怪変化や革命家。規範や抑圧にハッキリと反逆する。あるいは死者たちの無念や怨念。生の欲求を国家に歪められて、素直に発露させられぬうちに死にゆく。そのとき噴出する、ハッキリした思い残しの声が、国家の心胆を寒からしめる。
けっきょく本書は、従順な国民の造出に励む明治国家体制と、そこに嵌らぬ「不気味なもの」か「超不気味なもの」との、闘争史として読める。しかも、その闘争史を観念的範疇にとどめず、鮮烈な文学史として屹立させるべく、著者が全編にわたってこだわるのは、血と肉と動物のイメージだ。明治国家体制の理想とする国民像が、いくさの手柄話に血を湧かせ肉を躍らせる愛国的少年少女に象徴されるとすれば、著者はそこに、国家によって血まみれにさせられ、肉を引き裂かれて、靖国神社に送り込まれるか、非国民として抹消されるかする、日本人の姿を対置する。本書は“大量戦死の日露戦争”と“大量死刑の大逆事件”という二極を経巡(へめぐ)り続けるのだが、それは“靖国への道”か“非国民への道”かという極限的二択とつながっているのであろう。その二択から逃れようとすれば、人は妖怪や動物にでも変身して異界へ脱出するか、生命としての素直な動物的欲求に目覚め、それを貫徹すべくこの国に革命を起こすか、これまた二択より選ぶほかない。でなければ、従順に家畜か兵隊蟻のように生きることになろう。
かくなる観点から本書は、意表を突いた文学や事件の組み合わせによる「超不気味なもの」の連合戦線を展開する。泉鏡花の「高野聖」を近代国家にまつろわぬ者が妖怪や動物と化す物語として、櫻井忠温の『肉弾』を血肉の四散する残虐文学として、夏目漱石の「趣味の遺伝」を兵士が虫に見立てられる書き方に注目して、乃木希典の明治天皇への殉死を『葉隠』の言う主君への同性愛的な「忍ぶ恋」に通じる“反国民道徳的事件”として、大胆に論じる。思わぬ切り口に目から鱗が落ちる。それらの言わば「超不気味なもの」としての性格を熱と力で解き明かす。
しかし、鏡花から乃木まで、さらに山県有朋や平出修や平沼騏一郎や幸徳秋水についての各論の細部に閃きや深まりがあればあるほど、「超不気味なもの」の連合戦線を束ねる、国家に抗する民衆という古典的かつ明快な構図では、収まりがつかなくもなるだろう。全体の単純さと部分の豊饒さとの齟齬が欲求不満の種となり、本書自体が何やら不気味なものと化してくる。もちろん、ここで言う不気味なものとは、研究をさらに飛躍させうる余剰に他ならない。著者の今後に期待する所以である。
片山 杜秀(慶應義塾大学教授)評
〔社会・風俗部門〕
小島 庸平(東京大学大学院経済学研究科准教授)
『サラ金の歴史 ―― 消費者金融と日本社会』(中央公論新社)
バルザックの『人間喜劇』にはゴプセックという、冷酷非情だが、将来有望な若者には寛容な条件で融資に応じる古典的な高利貸が出てくる。いっぽう『役人の生理学』というモノグラフィには役人仲間に小金を融通して利息を稼ぐ素人高利貸が登場する。本書を読むと「サラ金の源流は、顔見知りの間で行われる個人間金融にあった」とあるので、サラリーマン金融の原点は前者ではなく、後者だとわかる。
すなわちサラ金は質屋と違って担保を取らないので、素性を知らない相手をどうやって信用するかが問題となるのだが、本書の読み所は、こうした金融にまつわる情報の非対称性がサラ金によってどのように克服されていったかを見事に描き出した点にある。
社(省)内金融の場合、与信は濃密な人間関係によって支えられていた。では、サラ金の草分け業者が会社を辞めて団地金融を始めたとき、彼らは与信の根拠を団地生活者のどこに見出したのだろうか?これが著者の最初の疑問である。同質性とライバル意識を特徴とする団地主婦の消費行動も原因の一つだが、著者は団地金融の成功はむしろ与信の借用にあったと指摘する。日本住宅公団による年収等の厳しい入居審査があったので、貸付審査を省略できたのだ。「団地に入居しているという事実を根拠に顧客を信用し、信用情報を収集するコストを大幅に節約したのである」。この貸付審査の省略が日本におけるサラ金の急成長の原因であり、以後、サラ金は他人が金をかけて行った信用調査をローコストで借用することに知恵を傾ける。
団地金融が迅速さ競争のコスト高で行き詰まると、いよいよサラリーマンに対象を絞ったサラ金が登場してくる。だが、なぜ対象がサラリーマン限定だったのか?サラリーマンは会社に縛られ、上役や同僚への体面もあるので、個人事業主とちがって夜逃げしないし、給料日は必ず巡ってくる。だから、健康保険証と給与支払い明細書だけで(初期には一名の連帯保証人を必要とする業者もあった)少額を貸すという金融業が成立したのだ。融資対象者を上場企業の社員か公務員に限定したことでさらなる飛躍を勝ち取る業者も出てくる。信用調査に代えるに、役所や企業の入社試験をもってしたのだ。
このように、サラ金の歴史を調べていくことにより、サラ金は日本社会、とりわけサラリーマン社会のハビトゥスに巧みに適応することで業績を伸ばしていったことが分かる。その最たるものは、生活苦のような「後ろ向き」の理由を挙げる者には融資しないが、ギャンブル、ゴルフ・旅行、飲食などのために借金する者にはこれを「前向き」と評価して積極的に融資したことである。
なぜなのか?会社の人事評価の基準を与信に流用したのだ。「情意考課の下で出世を望むのであれば、職場の飲み会や接待・ゴルフなどに積極的に参加したり、気前よく部下におごったりするなど、つきあいのよい人格円満な人物として周囲にアピールせねばならない」。
サラ金の歴史を考察することで、サラリーマン社会という日本特有の中間団体の特性まで明るみに出した傑作で、社会・風俗部門にまことにふさわしい受賞作といえる。
鹿島 茂(作家、フランス文学者)評
〔社会・風俗部門〕
竹倉 史人(人類学者/独立研究者)
『土偶を読む ―― 130年間解かれなかった縄文神話の謎』(晶文社)
「私は精霊が示す“かたち”を受け取り、縄文人たちと同じように、そこから目に見えない精霊の身体を想像した」――縄文時代から降りてきた霊媒を自認するような、著者の神秘的ことあげ。「直観的なヴィジョン」「縄文脳インストール作戦」など、いわゆる学術論文の形式を学問の正当派とする認識からは、あるいは本書の叙述は受け入れ難いかもしれない。
しかし、こうした過去にむきあう姿勢は、オランダの文化史家ヨハン・ホイジンガが歴史学者に必須の能力と位置づけた「歴史的洞察力」に近い。縄文人の視点にたち、当時を追体験して、土偶に託された人々の心性を明らかにする――。一見突拍子がないようにみえて、本書の方法論は、過去の人々の視点を追体験する歴史叙述を旨とした、文化史、心性史の泰斗の方法に通じ合う。
土偶を人体のデフォルメや女性像とみなす“通説”を覆し、本書は、イギリスの人類学者ジェームズ・フレイザーの『金枝篇』における植物霊祭祀にも触発されて、土偶は縄文人の食用植物の形象であると説く。ハート形土偶とクルミ、さらには、現代のクリのキャラクターと土偶の形状との類似性の指摘など、著者の視覚表象の分析は、過去から現代へと縦横無尽にかけめぐる。新説を単なる思いつきのイメージ連鎖に終わらせないよう、オニグルミの分布との関連性など、当時の植生や食生活の実態も視野に入れ、実証的に議論を進めようとする。
この新説を疑問視する「専門家」もいるかもしれない。しかし、「専門家」という鎧をまとった人々のいうことは時にあてにならず、「これは〇〇学ではない」と批判する“研究者”ほど、その「○○学」さえ怪しいのが相場である。「専門知」への挑戦も、本書の問題提起の中核をなしている。
同じ著者による『輪廻転生 ―― 〈私〉をつなぐ生まれ変わりの物語』(2015年)も、古代ギリシア哲学から現代日本社会の「スピリチュアリティ」まで、時代と地域を横断して人類の宗教的心性を比較文化的に論じており、特定の時代や地域に限定されがちな「専門性」から自由な「知」のありようを示している。
本書が豊富に含む土偶の形象は評者に、北米の女性たちによる古代ギリシアの女神崇拝運動を連想させた。著者が『輪廻転生』で言及した、女神アナンケや運命の三女神たちが体現する宗教性は、潜在的に、著者が感得したという日本の土偶の「精霊」にも通じ合わないだろうか。子抱き土偶を母子像とみなす通説と、子供をトチノミとみなす著者の説は矛盾せず、土偶は植物像でありかつ女性像でもあるとはいえないだろうか――。若き日の夏休み、黙々と住居址を発掘していた当時の考古学の恩師の著書(関俊彦『エーゲ文明 ―― クレタ島紀行』)なども読み返しながら、日本の土偶は、縄文人固有の心性の所産なのか、はたまた人類の古代文明に共通するある種のアーキタイプの表出なのかと、評者は思いをめぐらすのであった。
「学」と「芸」の双方を備える著作こそがふさわしいとされる本賞の理念を体現する可能性を秘めた一冊として、選考委員会は大胆に本書を評価した。学術と評論のあわい、「専門」の内外を往還する生産的「知」の対話が、本書によって喚起されることを期待する。
佐伯 順子(同志社大学教授)評
〔思想・歴史部門〕
上村 剛(日本学術振興会特別研究員)
『権力分立論の誕生 ―― ブリテン帝国の『法の精神』受容』(岩波書店)
権力分立、とりわけ立法・行政・司法の三権分立は、現在の日本の政治制度を理解するための基本概念として、人々の常識になっている。そして、18世紀のフランスで三権分立を唱え始めた思想家としてモンテスキューの名前が、高校教科書では必ずとりあげられる。だが、その主著『法の精神』にはたしかに裁判権の独立が説かれているものの、立法権・執行権・司法権の三つの「分立」を明示した箇所がない。
これは長らく思想史の研究者を悩ませてきた問題であった。そしてさしあたりの理解として、以下のような説明が共有されてきた。モンテスキューの生み出した権力分立論がアメリカへ継承され、やがて合衆国憲法の制定時にジェイムズ・マディソンは、三権がおたがいに抑制・均衡の関係に立つ権力分立論を確立した。こうしたこれまで漠然と存続してきた説明が「美しい嘘」にすぎないことを、本書は明るみに出す。同時に地理上の範囲をさらに広げ、多くの問題を含みこんだダイナミックな思想史の展開を跡づけたところが重要である。
モンテスキューの『法の精神』は、植民地帝国ブリテンへと伝わって、司法と立法の融合の危険性を批判する議論と、植民地の統治体制をめぐる議論のなかで、解釈の重大な変容が起こる。伝統的な混合政体論に代わって、立法・執行・司法の三つの権力を分立させるべきだという議論が、モンテスキューを援用しながら展開されるようになったのである。
だが、単に三権が「分立」するだけでは、現代において通常思い描かれる「三権分立」の制度が十分に実現するとは言えない。たとえば司法権が立法権に積極的に介入するといったように、三権が相互に抑制・均衡を行う仕組みが必要なのである。合衆国憲法制定をめぐる論争のなかでマディソンは、むしろモンテスキューの理論から訣別すると宣言しながら、三つの権力の抑制・均衡を説いたのだった。そしてさらにアレグザンダー・ハミルトンが、大統領制のもとでの執行権の単一性を保持するための「一点突破」の論法として、抑制・均衡を強調しつつ、積極的な司法審査の制度を支持することになった。
本書は、データベースで公開された史料をふんだんに検索・読解し、さらに海外の図書館や文書館に足を運ぶことで可能になった研究の成果である。舞台はフランスからイングランド、北米植民地、インド植民地、アメリカ合衆国と目まぐるしく移り、それぞれの地域に即した思想史の背景が明らかにされる。18世紀の植民地帝国という新たな秩序が生み出した思想の変容の過程として、全体を意味づけることも可能だろう。人とモノの移動だけでなく、思想の伝播と受容もまた、歴史のグローバルな展開の重要な要素であり、むしろ思想こそが、長い距離をこえながら影響を各地の文化にすばやく及ぼすと見ることもできるだろう。政治思想史が本来、視野の広いグローバル・ヒストリーへと展開する要素を秘めていることを、よく実感させてくれる快著である。
西洋政治思想史の研究は、英国のみ、フランスのみの思想を扱うといった一国集中型になりがちである。著者、上村剛氏は早くも最初の著書でそうした枠を打ち破る離れ業を見せた。欧米の思想史の全体像に挑み、歴史研究と現代における政治制度の考察との双方を視野に入れた、スケールの大きな研究者の登場を言祝ぎたい。
苅部 直(東京大学教授)評
〔思想・歴史部門〕
北村 陽子(名古屋大学大学院人文学研究科准教授)
『戦争障害者の社会史 ―― 20世紀ドイツの経験と福祉国家』(名古屋大学出版会)
20世紀前半のドイツは、2度の大戦によって300万人におよぶ戦争障害者を生み出した。彼らは戦争という国家事案を遂行した英雄、あるいは犠牲者として優遇される反面、厄介者として疎外され、抑圧された。本書は、第1次世界大戦まで、戦間期、第2次世界大戦とその後、という3つの時期を戦争障害者がどのように生きたのか、そして国や社会は戦争障害者にどう向き合ったかを、援護法制、医療支援、就労支援、家族関係等、多角的な視点から考察し、戦争障害者の存在がドイツにもたらした影響を解き明した力作である。
第1次大戦後、戦争障害者に対して国が全面的に援護を行う全国援護法が制定された。ただし、その援護は労働による自立を原則とし、戦争障害者の身体機能を回復させ、生業に復帰させることに重点が置かれた。その結果、リハビリなどの身体鍛錬法が考案され、やがて体操、水泳、球技、射撃などのスポーツ競技へと発展していった。また義肢や盲導犬等、現在も用いられる医療技術や補助技術の開発につながった。
援護法のもとでも戦争障害者が就職することは容易ではなく、彼らは国家の福祉政策に依存する厄介者と見られるようになった。「戦争障害者は第一の市民である」を標榜するナチ政権に、多くの戦争障害者が取り込まれたのも無理はない。第2次世界大戦後、連合国による占領支配下において、戦争障害者や戦没兵士遺族は「ナチの支持者」と見なされ、援護法による特別支援は停止された。ソ連支配下の東ドイツでは援護法は再立法化されなかったが、西ドイツでは、空爆などによって被害を受けた人々も含む形で特別立法が要求され、就労困難な障害を抱える人々一般へと就労優遇政策が広がっていった。
戦争障害者の援護は、傷ついた男性兵士を労働によって自立させ、社会に統合するための方策であり、稼得者としての「男性らしさ」の回復を目指すものであった。しかし、実際には女性たちが生計の中心にならざるをえなかった。社会の建前に対する女性たちの抵抗が、1960年代以降に興隆するフェミニズム運動を準備したと著者は捉える。
本書を読むと、スポーツ、義肢、盲導犬、社会福祉、ジェンダー平等など、現在私たちが手にしている「善いもの」の基底には、時代に翻弄された戦争障害者とその家族という社会的弱者の存在があることが分かる。社会的弱者の度重なる犠牲の上に私たちの幸福が成り立っているのだ。社会全体がどれだけ弱者に向き合い、寄り添い、共に解決しようとするかによって、未来の幸福が決まると言える。
新型コロナウィルス感染症の世界的蔓延は、私たちに、誰もが弱者になりうる時代にいることを告げた。コロナウィルス感染症が終息したとしても、気候変動、災害、エネルギーや水の不足、紛争・戦争等によって、誰もが弱者になりうる時代は続くだろう。今こそ、弱者を中心に置く持続可能な社会を構想し、実現に向けた具体的な活動を、それぞれの持ち場で進めていかなくてはならない。その時、本書は、善き導き手の役割を果たしてくれるだろう。
日本における傷痍軍人や戦没者遺族との比較を含め、未来を拓く北村氏の研究がさらに広がることを期待したい。
堂目 卓生(大阪大学教授)評
以上