北海道函館市 函館西部地区バル街 |
◎受賞理由
全国で開催されるバルイベントを日本で初めて実施し、見知らぬ市民同士が言葉を交わす「街角での社交」を創出。市民が街の魅力を再発見することに貢献した点が高く評価された。
◎活動概要
函館の旧市街である西部地区は、歴史的建造物が残る美しい街並みが人気で多くの観光客が訪れる。しかしこの地区以外に住む多くの市民にとっては、用事がなければわざわざ行かない「観光の町」。観光客がいなくなる夜には人影少なく寂しい雰囲気となる。ところが春と秋の年2回、夕暮れ時から多くの市民が西部地区に繰り出し、一気に華やぐ夜がある。「函館西部地区バル街」が開催される日だ。
「函館西部地区バル街」とは、参加店を掲載したマップを見ながら街を巡り、事前に購入したチケットと引き換えにドリンクとおつまみを味わう、「食べ・飲み・歩き」を楽しむイベント。2004年に行われた「スペイン料理フォーラムin HAKODATE」の前夜祭としての企画が発端だ。発案者であるスペイン・バスク料理店主の深谷 宏治(ふかや こうじ)氏は、バスク地方の旧市街で盛んなバル(立ち飲み居酒屋)巡りの文化をこの西部地区で再現することで、地域の人々に楽しみながら街への愛着を感じて欲しいと考えた。料理人仲間や、この街への熱い思いを共有する友人たちと実行委員会をつくり、企画を実現させた。
当初は1回限りの予定だったが、参加した市民から「楽しかった!」「西部地区を見直す機会になった」と継続を熱望する声が寄せられ、翌年以降も実施。2019年の春には31回目を迎えた。市民にとっては、日ごろ訪れることの少ない西部地区に立ち寄り、お気に入りの店を見つけるきっかけとなった。それ以上に、マップを手に街をそぞろ歩くうちに、知らないもの同士でも会話がはずむ「街角での社交」の非日常感が楽しみとなっている。店にとっては、地元の客との新たな出会いだけでなく、普段のメニューとは異なる一品を仕立てるチャレンジの機会にもなっている。
15年間で参加店は25店から80店以上に、5枚つづりのチケットの販売数は400冊から4,000冊以上に増えた。一夜に4,000人以上の市民が西部地区バル街に集うことで、市民によるライブや着物の着付けなど、他の文化活動も生まれている。バル街の活動は全国から注目を集め、実行委員会への問い合わせや視察の申し入れが絶えない。それらに対し惜しみなく助言し、ノウハウを提供してきた結果、同様のイベントは日本中に広がり、今日では数百ヵ所で開催されている。
バル街の活動の目的は地域活性や観光振興というより、あくまで「みんなで街を楽しむため」。行政の補助金や大手企業からの助成金などに頼らない自由な運営がポリシーだ。2009年からは、国内外の名だたる料理人が集まり料理哲学を語る「世界料理学会in HAKODATE」も開催されている。函館の街を舞台に、楽しみながら独自の食文化を発展させようとする、陽気な仲間たちの野心的な試みから、これからも目が離せない。
◎代表者および連絡先
〈代表〉 |
◎北海道内のこれまでの受賞者
上川地域 「君の椅子」プロジェクト(2015年)
釧路市 北海道くしろ蝦夷太鼓(2010年)
壮瞥町 昭和新山国際雪合戦(2007年)
札幌市 加藤 博氏(1999年、個人)
札幌市 YOSAKOIソーラン祭り(1998年)
函館市 市民創作「函館野外劇」の会(1993年)
士別市 士別サフォーク研究会(1991年)
札幌市 札幌こどもミュージカル(1990年)
東川町 東川氷土会(1989年)
置戸町 おけと人間ばん馬(1987年)
函館市 南茅部沿岸漁業大学(1985年)
旭川市 木内 綾氏(1983年、個人)
江差町 江差追分会(1982年)
函館市 カール・ワイデレ・レイモン氏(1979年、個人)
群馬県渋川市 上三原田(かみみはらだ)歌舞伎舞台操作伝承委員会 |
◎受賞理由
特殊な仕組みを持つ農村歌舞伎舞台の維持と設営、公演の裏方作業まで地域住民が一体となって手がける。舞台とそれを維持する技術が地域の文化的シンボルとして受け継がれていることが高く評価された。
◎活動概要
渋川市は群馬県のほぼ中央に位置する交通の要衝で、古くから宿場町として栄えていた。市内ののどかな田園地帯にある赤城町(あかぎまち)上三原田地区には、世界にも類をみない特殊な機構を持つ「廻り舞台」とも言われる「上三原田の歌舞伎舞台」がある。これは江戸後期に地元の大工・永井長治郎が上方に行って修行をし、帰郷後の1819年に建築したものと伝えられている。
間口5間(約9m)、奥行き4間(約7m)と、一見小さな茅葺き小屋に見えるこの建築物は、舞台演出のためのいくつもの複雑な仕掛けを備えている。三方の板壁を水平に倒して舞台面を拡げる「ガンドウ返し」、奥行きのある絵を背景に用いる「遠見」、舞台の回転部を回す「柱立式(はしらだてしき)回転機構」、天井と奈落の双方からセリの上げ下げができる「セリヒキ機構」が大きな特徴で、これほど多くの仕組みを持つ農村舞台は他にはないという。
渋川市赤城町ではもともと地歌舞伎や旅芸人の公演が活発に行われていた。上三原田の歌舞伎舞台も江戸後期に隆盛を極め、明治以降も興行が行われてきた。だが、戦後には歌舞伎以外の娯楽が増え、舞台を維持するための負担も大きいことから、取り壊す計画が立てられた。しかし、この舞台がいくつもの特殊な仕組みを持つ文化的価値の高いものだと判ると、民俗学者、建築学者たちからも注目が集まり舞台の保存が決まった。その後、1960年に国の重要有形民俗文化財に指定され、同じ年に上三原田地区の住民で組織する「上三原田歌舞伎舞台保存会」が結成された。
現在では、毎年11月に舞台を用いた公演を行い、周辺地域の歌舞伎団体も発表の場として活用している。公演のためには何週間も前から準備が必要で、中でも客席の屋根は「ハネギ」と呼ばれる杉の木を組み合わせた大規模なもののため、住民が交代で作業にあたる。また、複雑な舞台の操作にも熟練の技と多くの人手が必要となる。公演当日は約80人が裏方を務め、奈落、天井裏、平舞台の担当者全員が拍子木の音を合図に、呼吸を合わせて操作する。上三原田では昔から「芝居は見るより見せるもの」と言われる。歌舞伎の舞台を見た人々が感動することで、これらの作業の苦労が報われるという。
1994年には、舞台の保存だけではなく、その操作技術を次世代に継承していこうと、会の名称を「保存会」から上三原田地区の全世帯が加入する、現在の「上三原田歌舞伎舞台操作伝承委員会」に改めた。
大工の永井長治郎が舞台を創建して200年となる今年(2019年)は、例年より興行の規模を拡大した「上三原田の歌舞伎舞台創建200年祭」を11月に開催し、地歌舞伎だけでなく現代演劇の公演も計画している。
上三原田の歌舞伎舞台は、その操作技術の伝承を通じて地域住民の結束を生み、地域の歴史と伝統に対する誇りを生んでいるのである。
◎代表者および連絡先
〈代表〉 |
◎群馬県内のこれまでの受賞者
群馬県全域 富岡製糸場世界遺産伝道師協会(2015年)
大泉町 細谷 清吉氏(1986年、個人)
滋賀県長浜市 冨田(とんだ)人形共遊団 |
◎受賞理由
独自の国際交流プログラムを通じて、日本文化の理解促進に貢献すると同時に、郷土芸能の継承活動を活性化している点が高く評価された。
◎活動概要
琵琶湖北東の農村・富田。20戸ほどの集落の周りには、見渡す限り田園風景が広がる。江戸時代、大雪で興行ができなくなった阿波の人形一座が、旅費代わりにとここに人形一式を置いていった。それをもとに住民たちが人形浄瑠璃を始め、1874年には滋賀県の興行許可を得て「冨田人形共遊団」を発足させた。近隣の村でも公演を行うなど、地域内外で愛されてきたが、1960~70年代に活動は一時低迷。危機感を感じた青年たちが富田以外の人も入れる形に変え、1979年、新生「冨田人形共遊団」として再出発を果たした。現在は週1~2回練習を行い、夏・秋には地元ホールで定期公演を開催し、年間約30回は各地で芸を披露している。1994年からは海外公演も行うようになり、これまでロシア、ドイツ、アメリカ、ニュージーランドで、計10回以上の海外公演を成功させた。
転機が訪れたのは、2001年。北米の大学をまわる公演ツアーで出会った学生に、日本においでと気軽に声をかけたところ、同年末に39人の外国人学生が突然来日した。大慌てで地域の人たちに宿泊の協力をお願いし、受け入れたのが好評で、翌2002年から、外国人の大学生がホームステイをしながら人形浄瑠璃を学ぶ「冨田人形サマープログラム」を開始した。
「冨田人形サマープログラム」では、世界各国から集まった10名前後の学生たちが、6~8月のほぼ毎日、朝から夕方まで人形遣い、三味線、浄瑠璃の稽古をする。団員をはじめ、地域には英語を満足に話せる人はほとんどおらず、学生たちも必ずしも日本語が上手ではない。さらに日本独特の3人での人形遣いは、他人と調子を合わせることが必要で、個人主義の文化で育った彼らは悪戦苦闘する。受け入れる方にも苦労は多いが、必死になって取り組み、成長していく若者たちを応援することは、地域の人たちの楽しみでもある。夏の定期公演では学生たちだけの演目も披露される。2ヵ月間の成果を見届けようと、集落の人口の3倍以上となる300人を超える観客が駆けつけ、熱演に大きな拍手を贈る。
プログラムの参加者はこれまで14ヵ国、294人にのぼり、卒業生とは帰国後も交流を続けている。中には日本企業に就職したり、日本語教師になるなど、日本との橋渡し役となって活躍する者もいる。近年は、卒業生がインターネットでの公募や海外公演の企画を手がけていて、共遊団の活動の幅を広げてくれている。
こうした活動が地域の中で注目を集めるようになり、共遊団を応援したいという人たちも増えてきた。だからこそ、共遊団は自分たちの芸を磨き、次世代に伝えていくことを大切にしている。地元の小中学校での講座は20年以上継続していて、2017年には公募による小学生のための人形浄瑠璃教室「ジュニアクラス」を開設した。「冨田人形共遊団」は、これからも多くの人たちに支えられながら、地域で愛される郷土芸能として発展を続けていくことだろう。
◎代表者および連絡先
〈代表〉 |
◎滋賀県内のこれまでの受賞者
長浜市 江北(こほく)図書館(2013年)
東近江市 東近江大凧保存会(1992年)
長浜市 長浜曳山祭保存会(1984年)
大分県竹田(たけた)市 瀧廉太郎記念音楽祭 |
◎受賞理由
全国に先駆けて地方都市で音楽コンクールを立ち上げ、以来70年以上の長きにわたり、市民参加型の運営でエリアを拡大しながら一度も休むことなく継続されてきた点が高く評価された。
◎活動概要
竹田市は、大分県の南西部に位置し、くじゅう連山、阿蘇外輪山、祖母山に囲まれ、竹田湧水群や久住高原を持つ、水と緑があふれる自然豊かな城下町。23歳という若さで夭折した作曲家・瀧廉太郎が幼少期を過ごし、ここで名曲「荒城の月」の曲想を得たという縁もあり、「音楽のあるまちづくり」を掲げている。
1947年に戦後の復興の象徴として人々に夢と元気を与えようと、瀧廉太郎没後45周年を記念して「楽聖・瀧廉太郎追悼45周年記念音楽祭」をスタートさせ、県の高校声楽コンクールや管弦楽の演奏会などが催された。第3回から、九州各県音楽高等学校声楽コンクールを開始。第5回からは西部日本高校声楽コンクールへとエリアを広げていった。1992年の第46回以降は、現在の「全日本高等学校声楽コンクール」へと拡大するとともに、1位と2位の入賞者へのウィーン短期留学制度も創設した。2013年からは、かつて瀧廉太郎の留学先だったことが縁となり、ドイツ・ライプツィヒからの「ライプツィヒ賞」が優勝者に贈られ、ウィーン留学中にライプツィヒにも招かれる。行政と市民が一体となった実行委員会が運営を担い、不況や災害等の苦難を乗り越えて、72年間一度も休むことなく継続している。審査員は日本を代表する芸術大学や音楽大学の教授陣が務める。声楽家を目指す高校生の間では“タキレン”の名で親しまれており、若手声楽家の登竜門となっている。
同コンクールは、例年10月中旬の3日間で、開会式、予選、本選が行われる。昨年の観客は延べ1,500人を超え、その8割弱が地元住民。また、この観客以外に期間中には延べ500人近くの市民ボランティアが活躍してコンクールを支えている。レセプション等で手作りの郷土料理を提供し、自分達で育てた植物で会場を装飾する以外に、出場する高校生やその家族、引率者など市外からの来訪者の宿泊、送迎、観光案内といった会場外でのボランティア活動も積極的に行われている。人口およそ2万人強の同市にとっては、まさに年に一度の市を挙げての大行事で、全国からの来訪者をもてなし交流することが、市民の大きな喜びであり、生きがいとなっている。「音楽のあるまちづくり」を推進する市にとっては、瀧廉太郎への想いと誇りを実感できる象徴的な活動であり、市民が音楽に触れ音楽を愛する大きなきっかけになっている。市内の6つの合唱団をはじめとする音楽団体が活発に活動しており、2017年には一度は休止した竹田市少年少女合唱団が10年ぶりに再結成された。
今後は、コンクールとして競い、評価するにとどまらず、交流のあるライプツィヒやウィーンとの協力関係を強化するとともに、若き声楽家のその後の育成に着手するなど、新たな挑戦に期待したい。
◎代表者および連絡先
〈代表〉 |
◎大分県内のこれまでの受賞者
豊後高田市 豊後高田 昭和の町(2009年)
佐伯市 県南落語組合(1998年)
大分市 ニューCOARA(1996年)
姫島村 姫島 車えび養殖(1988年)
宇佐市 新邪馬台国(1986年)
由布市 湯布院 自然と文化のまちづくり(1982年)
大分市 大分県民オペラ協会(1979年)
宮崎県高千穂町 高千穂の神楽 |
◎受賞理由
約50年にわたり毎日観光客向けの神楽を上演し、その魅力を国内外へ発信し続けると共に、伝統ある神楽の後継者育成の場としている点が高く評価された。
◎活動概要
険しい山々に囲まれ、日本神話ゆかりの地として知られる宮崎県高千穂町では、夜を徹して氏神に神楽を奉納する「夜神楽」が毎年冬季に行われる。記録によると、鎌倉時代初期には既にこの地で神楽が行われていたという。
新穀収穫に感謝を捧げ、五穀豊穣を祈願するこの祭りは、個人宅や公民館などの「神楽宿」へ各集落の氏神を招いて行われる。集落ごとに多少の違いはあるが、夕暮れ時に神楽が始まり、20名前後の奉仕者殿(ほしゃどん)と呼ばれる舞手が笛や太鼓に合わせて33番ある舞を奉納し、翌日の昼前後に終了する。また、祭りの準備や見物客に酒や食事を振舞うために、奉仕者殿以外にも大勢の住民が駆けつける。国内外から一晩で500人近くの見物客が訪れるという。現在は、毎年11月から翌年2月にかけて、このような夜神楽が21の集落ごとに奉納されている。
また、そうした各集落での夜神楽とは別に、観光客向けの「高千穂神楽」を1年365日高千穂神社にて上演している。33番の舞から代表的な4つを短くまとめて1時間で公開しており、多い日には100人以上が訪れるほどの人気ぶりだ。名勝高千穂峡を擁するこの町には、元々多くの人が訪れていたが、「観光客のために、夜間の観光スポットをつくりたい」という旅館関係者の声を受けて観光協会が主導し、1972年から現在まで50年近く休まずに続けている。演者を務めるのは、各集落の奉仕者殿たちである。一年を通して舞を披露する機会があるため、技芸の向上や、モチベーションの維持につながり、後継者の育成に大きな役割を果たしているという。
農業が主要産業である高千穂にとって、神楽は重要な神事であると同時に、人々が集い・楽しむことができる、地域になくてはならない存在だ。奉仕者殿はもちろん、準備やふるまいを行う地域住民もみな大の神楽好き。集落によって舞には違いもあるが、皆が「うちの神楽が一番だ」と笑う。人口減少が進む中でも、奉仕者殿の人数は初心者も含めて500人あまり。そのうち、約140人は10代から20代の若者である。
中には人手不足に陥る集落もあるが、そうした地域では夜神楽の代わりに「日神楽」として日中に短い舞を奉納するほか、他集落の奉仕者殿に助っ人として参加してもらうなどして神事としての神楽を続けている。また、兼業農家の増加に伴い、旧暦を基準に行っていた夜神楽を休日に開催するようになった集落も多い。さらに、未来への神楽継承のために集落同士の連携を強めようと、2017年に「高千穂の夜神楽伝承協議会」を設立。ユネスコの無形文化遺産登録を目標に掲げている。このように、高千穂の人々はこれからも伝統に誇りをもちながら、祭りを楽しみ、柔軟に活動を続けていくだろう。
◎代表者および連絡先
〈代表〉 |
◎宮崎県内のこれまでの受賞者
美郷町 南郷村 百済の里づくり(1994年)
以上