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サントリー学芸賞

選評

芸術・文学 2013年受賞

岡田 万里子(おかだ まりこ)

『京舞井上流の誕生』

(思文閣出版)

1969年生まれ。
早稲田大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得退学。博士(文学)。早稲田大学坪内博士記念演劇博物館助手、日本学術振興会特別研究員、パリ第4大学ソルボンヌ校極東研究センター招聘研究員などを経て、現在、ミシガン大学日本研究センター客員研究員。
著書:『増補古今俳優似顔大全』(共著、早稲田大学演劇博物館)、『日本舞踊曲集成(2)京舞・上方舞編』(演劇出版社)

『京舞井上流の誕生』

 洋の東西を問わず舞踊研究は難しい。舞台芸術一般に言えることだろうが、それにしても演劇には脚本があり、音楽には(少なくとも近世以降は)楽譜がある。舞踊にはそういったものが存在しない。映像記録のない時代へと遡る舞踊史の研究となるとほとんどお手上げである。結局は、芸談や見聞録に頼るしかない。その芸談や見聞録にしても多くは功成り名遂げたものへの聞き書きであり、老年の回顧談である。主観的であることは免れない。足がかりにするには一抹の不安が残る。学問になりにくい。
 岡田万里子の『京舞井上流の誕生』は、そういう困難を乗り越えようと試みた画期的な一冊である。簡単に言えば、さまざまな古記録を博捜して、芸談や回顧談の裏を取ってまわったのである。そして、上方舞あるいは地唄舞の筆頭と言うべき京舞・井上流のイメージを180度変えてしまった。たとえば谷崎潤一郎の言う、上方舞は「どこまでも、金屏風と燭台とに囲まれたお座敷の芸術」という常識を、あえて言えば根底から揺すぶってみせたのである。むろん谷崎は自身の印象を的確に語っているのであり、その印象はいまもたとえば国立劇場で毎年開催される「舞の会」などにも十分に通用するものなのだが、それはしかし「新しい伝統」に基づく常識にすぎない可能性が大いにあるということなのだ。
 具体例を二つ挙げる。
 第一、井上流は初世・井上八千代が近衛家に奉公したことによって「御所風の非常に上品な立居振舞や白拍子舞」を体得したとされる「常識」を、近衛家24代当主・経熙の夫人・円台院宮董子の『円台院殿御日記』を読み込むことによって覆したこと。少なくとも、江戸時代末期の堂上公卿の生活を子細に点検することによって、それが従来のイメージとは大きく異なることを示した。「舞楽や能楽の上演もあったが、それ以上に、浄瑠璃や曲馬(舞踊を含む)といった巷間の芸能が摂家の奥向きをも魅了していた」というのである。御所でさえ都の風俗と無縁ではなかった。
 第二、残された番組(公演プログラム)そのほかを子細に点検することによって、「花街の舞踊は、茶屋の座敷の奥にしめやかに秘められた静的な舞踊だけではなく、大きな舞台での上演に適した舞踊をも含んでいた」ことを明らかにしたこと。井上流は、今日で言う舞台公演とほとんど同じことを「舞稽古さらへ」の名のもとに行っていたというのである。また、西鶴の『好色二代男』に描かれた「祇園町の十替り踊」すなわち盆踊りに代わって、江戸後期には「ねりもの」と称される仮装行列を行なうなど、京の芸妓は群舞と決して無縁ではなかった。「都をどり」は三世・井上八千代の手になるが、その素地はすでに京の花街に存在していたというのだ。
 主題は明確、文章は平易。とはいえ、体裁はあくまでも専門的な学術書である。一般人にも広く読まれうる本というサントリー学芸賞の原則にはやや反するようだが、舞踊研究、舞台芸術研究の今後に与えるだろう刺激を思えばそれでもなお授賞に価すると信ずる。

三浦 雅士(文芸評論家)評

(所属・役職等は受賞時のもの、敬称略)

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