今回のレシピは、ムサカです。ムサカは、日本やヨーロッパでは、ギリシャ料理のイメージが強いですが、原点は、オスマン帝国が成立したばかりの頃に、オスマン帝国の宮殿で作られていた料理のようです。オスマン帝国はその名の通り、オスマン家出身の君主が治める国で、オスマン家はテュルク系、つまり後にトルコ人になる民族です。使用された言語はオスマン語と呼ばれるアラビア語やペルシャ語の単語を多く含むトルコ語ではありましたが、帝国を構成する民族はテュルク系に限られず、多民族国家だったようです。オスマン帝国が小国から帝国と呼ばれるようになったのは、1453年にメフメト2世が東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルを攻略して、ついに東ローマ帝国を滅ぼした時からです。コンスタンティノープルは、以後オスマン帝国の首都となりました。この頃からコンスタンティノープルはイスタンブールと呼ばれるようになりました。イスタンブールは、黒海とマルマラ海を隔てる細長い陸地の中央部にあります。この細長い土地は、東西に200km、南北に40kmほどあります。その中央部に黒海とマルマラ海とを繋ぐボスポラス海峡があります。ボスポラス海峡は狭い所では700mほどしかありません。イスタンブールはボスポラス海峡の両側に広がっていますが、旧市街は西側にあります。15世紀のオスマン帝国はトルコとギリシャ、ブルガリアからセルビア南部くらいまでが領土でした。オスマン帝国が最大勢力を誇ったのはスレイマン1世の時代、1520年から1566年でした。その領域は中央ヨーロッパ、北アフリカ、紅海周辺のサウジアラビアあたりにまで広がっていました。ムサカは、このオスマン帝国の領土の広がりとともに広がっていったのです。広がっていく中でムサカはそれぞれのエリアで、独自の進化をしていきます。皆様がギリシャ料理店で食べた事のあるムサカは、素揚げのナスとジャガイモとトマト味のひき肉が何層かに重ねられ、その上にベシャメルソースが載せられてオーブンで焼かれた熱々の料理だったと思います。日本人やヨーロッパの殆どの人々がイメージするムサカは、多分これです。でもムサカの原型は全く違う料理だと推測されます。ムサカの語源はオスマン帝国時代のオスマン語のムサッカで、直訳すると「冷たくしたもの」なのです。なのでオスマン帝国が始まった頃のムサカは冷菜だったと考えられます。またギリシャ料理のムサカに重要なトマト、ジャガイモは16世紀以降にヨーロッパにアメリカ大陸から伝わります。ムサカが初めて作られた15世紀には影も形も無かったのです。15世紀のムサカがどんな料理であったかの詳細な記録は無いのですが、ナスとひき肉の冷菜だったのだろう・・・と推測されます。ギリシャ料理のムサカを、オスマン帝国時代のムサカとは全く異なる姿に変えた立役者がいます。その人の名はニコラオス・ツェレメンテスです。ツェレメンテスは1878年にキクラデス諸島で生まれ、父のレストランを手伝ったあと、ウイーンで料理を学びました。ギリシャの大使館で料理人をした後にアテネのエルメスホテルの支配人として腕を振るい、その後アメリカに渡って活躍しました。ツェレメンテスの、料理の背骨はフランス料理です。ギリシャに戻り、1932年に、初めてのギリシャ語による料理本を出版し、現代版のムサカやブイヤベースなどのレシピも掲載しています。ツェレメンテスは当時のギリシャ料理からトルコの要素を排除し、フランス料理の色合いを織り込む工夫を沢山しました。今回のムサカは、ギリシャ料理のスタンダードムサカよりも、更にフランス料理に寄っています。ベシャメルソースには、しっかり目にバターを使っています。さて、このムサカにテイスティングメンバーが選んだイチオシワインはサントリーフロムファーム 岩垂原 メルロでした。サントリーフロムファーム 岩垂原 メルロは長野県塩尻市にあるサントリー信州塩尻ワイナリーのフラッグシップワインです。今年の9月1日に、今までサントリー塩尻ワイナリーと呼んでいたのを名称変更して、サントリー信州塩尻ワイナリーに生まれ変わりました。長野県は大きく分けて、北信地方・東信地方・中信地方・南信地方の4つの地方に分かれていますが塩尻市は中信地方に属します。長野県は広い県で都道府県面積ランキングの4位で、北海道、岩手県、福島県の次に広い県なのです。今も信州と呼ばれ、昔は信濃国とも呼ばれており、信濃国は現在の長野県とほぼ同一のエリアです。慶応2年(1866)頃の信濃国には16の藩の名前がありました。当時2万石以上有った藩が松代藩 10万石、松本藩 6万石、上田藩 5.3万石、高遠藩 3.3万石、高島藩 3万石と飯山藩 2万石の6つです。現在の長野市周辺を治めていたのは松代藩です。松代城があったのは長野駅から南に6kmくらい行った松代町で、松代城址が松代公園になっています。中信地方の雄は松本藩でしたが、現在の塩尻駅前や桔梗が原、塩尻市役所周辺は松本藩ではなく幕府直轄領でした。塩尻市役所の「塩尻市の歴史」を見ると、鎌倉時代から戦国時代にかけて、諏訪大社下社の神領として筑摩郡塩尻郷という記録があるそうです。江戸時代は塩尻宿や洗馬宿などが中山道や北国西街道の宿場町として栄えたそうです。歴史の中に岩垂の文字が登場するのは15世紀で、諏訪大社の下諏訪春秋両宮御造宮帳に岩垂が出てきますが、洗馬庄の村のひとつだったようです。その後、岩垂村は松本藩に属し、幕末には高遠藩でした。1874年(明治7年)10月25日に筑摩県筑摩郡本洗馬村・小曽部村・岩垂村が合併して洗馬村となり、1889年(明治22年)4月に施行された町村制の時には、洗馬村は単独行政を行う地方自治体になりました。その後、1961年(昭和36年)6月に塩尻市に編入され、大字洗馬になりました。岩垂原は、メルロの有名産地である桔梗が原とは奈良井川を挟んだ川向うの位置です。ほんのわずかだけ岩垂原の方が、標高が高いです。桔梗が原は農耕の歴史が長く表土は黒ボク土で保水力があります。一方岩垂原は、表土が砂質で、その下には、「岩垂原」の名前の通り、川の洪水による礫がゴロゴロしていて極めて排水性の良い土壌です。サントリー信州塩尻ワイナリーの前身であるサントリー塩尻ワイナリーが開設されたのは1936年の事です。サントリーの祖業はワインです。最初のヒット作は赤玉で1907年の発売です。第一次世界大戦で日本は中国の青島などを植民地にしていたドイツに宣戦布告し戦勝国になりましたが、満州事変があったり、1933年には国際連盟を脱退してしまい、経済制裁を受けるようになります。当時爆発的に売れていた赤玉ですが、最初はスペインやポルトガルのバルクワインをブレンドして日本人好みの味わいの赤玉にしていましたが、だんだん輸入規制が厳しくなり、原料ワインを国内で調達する必要性が出てきたのです。塩尻では早くからぶどう栽培をしており、コンコードやナイアガラのぶどうが沢山栽培されていたのです。林五一さんの仲立ちでサントリーは塩尻ワイナリーを開設したのです。ぶどう栽培農家の方々は「赤玉出荷組合」を結成してぶどうを供給してくださり、赤玉出荷組合は現在も活動を続けています。最初は本格的な辛口ワインに馴染めなかった日本人でしたが、1964年の東京オリンピックや1970年の大阪万博を経て、徐々に食生活も欧風化し、本格的な辛口ワインの消費量も順調に増えていきました。塩尻でもメルロやマスカット・ベーリーAなどの品種を1970年代の後半から栽培するようになりました。マリアージュ実験に使った岩垂原 メルロは2021年ヴィンテージです。赤玉出荷組合の中には、中核となっている協力者さんがいらっしゃいます。サントリーと契約栽培をし、収量制限などにも取り組んでくださっている腕利きの方々です。2021年ヴィンテージの岩垂原 メルロは、その中でも「ぶどう栽培の名手」と呼ばれる山本さんのぶどうを中心に、サントリーの自社管理畑である黒紫園と濃紫園と菖蒲園のメルロが使われています。グラスに注ぐと、日本のメルロとしては、色は濃く、ダークチェリー色です。グラスからはスミレの花や、少し酸味の残るダークチェリーとそのコンポート、プラムなどを連想させる果実の香りがあります。程良いオーク樽からのヴァニラとクローブなどのスイートスパイスの印象もあります。涼やかな塩尻らしい針葉樹とシダのタッチもあります。ハリのある果実味と、一本芯の通った酸味、カチッとした骨格のあるタンニンで密度の高さを感じる味わいの赤ワインです。ムサカと合わせると、ムサカのボリューム感のある味わいと岩垂原 メルロのフルボディの味わいが丁度良いバランスになっていました。
「牛肉のコクと岩垂原 メルロのボディ感がぴったりと合っていますね」
「ナスって皮の濃い紫の部分に豊富なポリフェノールを持っていますから、強めの赤ワインに良く合う素材ですよね。ムサカでもナスの身の部分がとろとろと溶けた、ねっとり感のあるテクスチュアと相まって、力のある岩垂原 メルロと丁度良いバランスになっています」
「ジャガイモの焦げたタッチと、しっかりと効いている樽との調和も楽しいです」
夏のナスから秋ナスへと味わいが深まっていく季節です。美味しそうなナスを見掛けられましたら、是非、このムサカの事を思い出してください。そしてサントリーフロムファーム 岩垂原 メルロとの抜群のマリアージュをお楽しみください。



