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日本ワインの歴史

◆日本固有品種「甲州種」が日本に伝来

日本のぶどうの歴史はいつから始まったのでしょうか。
奈良時代の歴史書「古事記」「日本書記」にぶどうと思われる記述があります。
ただ、見解が一様でないため、断定はできません。
しかし、奈良時代にはぶどうをモチーフとした絵柄が数多くあるため、ぶどう自体の認識はあったように思われます。
日本ワインの原料であるぶどうの代表的な品種が「甲州種」です。
「甲州種」は、ヨーロッパが起源の日本固有品種で、奈良時代から平安時代にかけて、シルクロードを通って、仏教と共に日本に伝わったとされています。
この「甲州種」の栽培の始まりには二つの説があります。
一つは、718年に修行僧の行基が、山梨県勝沼に大善寺を開山し、そこで栽培を始めた説。
もう一つは、1186年に山梨県勝沼に住む雨宮勘解由という人物が発見したという説。
雨宮勘解由は、自宅近くの山道で自生の山ぶどうとは違う、今までに見たことのないぶどうを見つけます。
自宅に持ち帰って栽培を始めたところ5年後に、30余りの房が結実。
実は、それが「甲州種」であったという説です。

◆日本にワインが伝わる

室町時代の頃まで、ぶどうは基本的に生食でしか、食べてこなかったとされています。
日本にはお米からお酒を造る習慣があり、飲み水も豊富なため、ぶどうから飲み物を作る必要がなかったのです。
日本の文献上、初めてワインが登場したのが室町時代後期です。
この時代に書かれた公家日記「後法興院記」に、「珍蛇(チンタ)」というお酒を飲んだという記述があります。
この「珍蛇」は、スペインやポルトガルから伝わった赤ワインを指すと考えられています。
また、この少し前の文献にも「南蛮酒」を飲んだという記録があり、こちらもワインであると考えられています。
1549年、イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルは、キリスト教布教のため、鹿児島を訪れます。
このとき、自身が布教したい地域の大名にワインを献上していきます。
オランダやポルトガルとの交易が盛んになると、さらにワインは広まっていきます。

◆ぶどうの栽培・日本ワインづくりが始まる(明治政府がワイン造りを推奨)

ワイン自体の認識は、徐々に広まっていきましたが、自国で生産するまでには至りませんでした。
ただ、江戸時代になると、生食用・加工用として甲州(現在の山梨県)を中心に"ぶどう栽培"は広まっていきます。
江戸時代の終わりごろ、浦賀沖に来航したペリーは、将軍にワインを献上します。
その後、日本は開国の道を進み、時代が明治になると、日本の近代化が急速に進んでいきます。
国の近代化を図りたい明治政府は、殖産興業の一環として、ぶどう栽培・ワイン醸造を奨励します。
まず、民間で動きが起きます。
1870年(明治3年)に山梨県甲府市で、山田宥教(やまだ ひろのり)と詫間憲久(たくまのりひさ)が「ぶどう酒共同醸造所」というワイン醸造所を設立します。
甲州種などを用いて、日本で産業として初めて、国産ワインが製造されました。
しかし、彼らが全財産を懸けて挑んだワイン造りは、製造技術の低さ、防腐剤の不備などで経営難に追い込まれ、数年で終わりを迎えます。
その二人を皮切りに、たくさんの人々が、ワイン造りに挑みますが、ことごとく失敗に終わってしまいます。
1877年(明治10年)、日本初の民間ワイン醸造所が設立されます。
それが、「大日本山梨葡萄酒会社」(メルシャンの前身)です。
この会社から、高野正誠と土屋竜憲という二人の若者がフランスに派遣され、本場のワイン醸造技術を二年間学びました。
フランスから帰国した二人は、宮崎光太郎と共にワインの醸造を始めました。

◆日本のワイン造りが本格化する

こうして始まった日本初の民間ワイン醸造所は、高野と土屋が主に醸造分野を、宮崎は販売分野を担当し、当初は順調に進んでいました。
しかし、当時はまだ技術面が追い付いていないこと、日本人がワインにあまりにも馴染みがなかったことなどが原因で、1886年(明治19年)「大日本山梨葡萄酒会社」は解散してしまいます。
解散後、宮崎光太郎と土屋竜憲は、のちに「大黒天印甲斐葡萄酒」という本格ワインを世に送り出す、「甲斐産葡萄酒醸造所」を設立します。
その後、土屋竜憲は、1891年(明治24年)に山梨県にワイン醸造所「マルキ葡萄酒」を、宮崎光太郎は自宅にワインの醸造所を設立します。

◆日本の気候に合ったぶどうの品種改良に成功

同時期に新潟では、川上善兵衛が新しい動きを始めます。
善兵衛は、フランスから帰国した土屋竜憲からぶどうの栽培技術を学び、1895年(明治28年)故郷の屋敷内に「岩の原葡萄園」を開設します。
善兵衛は、日本の気候に適したぶどうを栽培するために、欧米からたくさんの種類のぶどうの苗木を取り寄せ、品種改良を行います。
善兵衛が行っていた品種改良の成果は、昭和の初めに実を結ぶことになります。
1927年(昭和2年)、「マスカット・ベーリーA」を始めとする、日本の気候風土に合った独自品種の開発に成功します。
この「マスカット・ベーリーA」は、現在でも日本ワインの原料の中心として使われています。
私財をなげうって、日本ワインの発展に尽くした川上善兵衛は、"日本ワインの父"と呼ばれています。

◆戦争とワイン

第二次世界大戦中、政府はワイン造りを推奨します。
しかし、それは飲料としてのワインを推奨したわけではありませんでした。
政府は、ワインを醸造したときに得られる「酒石酸」という副産物を欲しがったのです。
この「酒石酸」は、敵の潜水艦を探知する時に使う、レーダーの製造に利用されました。
戦時中、ワイン工場は軍の管理下に置かれ、軍事目的で大量のワインが製造されました。

◆現在のワイン文化

1970年(昭和45年)に開催された日本万国博覧会以降、日本の食生活は急速に欧米化が進み、それに伴ってワインの消費量もかなり増えました。
1980年のバブル期には、現在でも毎年騒がれる「ボジョレーヌーボー」が大ブームになりました。
現在、日本のワイン市場は急速に拡大しています。
かつては"発展途上"と言われ、あまり評価が良くなかった日本ワインも、各メーカーや醸造家が努力を重ねた結果、現在では、国際コンクールで入賞するようなワインを、自国で造れるようになりました。今、日本ワインは欧米のワインと肩を並べるまでに、進化しています。

<<サントリーのワインづくりの歩み>>

◆大阪で「サントリー」の前身「鳥井商店」設立

1899年(明治32年)、鳥井信治郎が、大阪で「鳥井商店」を設立します。
"日本人の味覚に合った洋酒をつくり、日本の洋酒文化を切り拓きたい"という想いで、ぶどう酒の製造・販売を開始、1907年(明治40年)、「赤玉ポートワイン(現・赤玉スイートワイン)」を発売します。この「赤玉ポートワイン」は斬新なネーミング・ボトルデザイン等もあって、大ヒットします。
1921年(大正10年)、鳥井信治郎は「鳥井商店」を母体として、「株式会社寿屋(現・サントリー)」を設立します。

◆「登美の丘ワイナリー」の前身「寿屋山梨農場」が誕生

一方、山梨県では、1909年(明治42年)、小山新助が「登美農園」を開園します。
三年後には、醸造技師のハインリッヒ・ハム氏(ドイツ)を招き、近代的ワイン造りを始動させます。
しかし、当時の他ワイナリーと同様に、本格的なワインは当時の人々に受け入れられず、農園は荒れ果てていきます。
そんな中、1935年(昭和10年)サントリー創業者・鳥井信治郎は、川上善兵衛と「登美農園」を視察。
翌年、信治郎は「登美農園」を購入し、「寿屋山梨農場」を開設します。

◆数々の国際コンクールで入賞するまでに成長

その後、終戦を迎えると、「寿屋山梨農場」では、欧州系品種(カベルネ・ソーヴィニヨン、メルロ、シャルドネ等)を本格的に栽培し始め、当時としては珍しかった、欧州系品種でのワイン造りをスタートさせます。

1964年には、本格的辛口ワイン「シャトーリオン」を発売、翌年、国際コンクールで金賞を受賞。1975年には日本初の貴腐ぶどうを収穫します。
1986年フラッグシップワイン「登美赤」を発売、2000年リュブリアーナ国際ワインコンクール(スロベニア)で日本初の「チャンピオン」を受賞。
2001年に「登美の丘ワイナリー」へと名称が変更されたこのワイナリーは、以降数々の国内外ワインコンクールで入賞を果たすワインを、数多く生み出してきました。