11月11日。
山崎蒸溜所、操業開始。
今年も11月11日がやってきます。この日は、山崎蒸溜所にとって特別な日。
93年前のこの日、日本初のモルトウイスキー蒸溜所の蒸溜釜に、はじめて火が入りました。
ジャパニーズウイスキーが夜明けを迎えた瞬間です。
「世界に誇る、日本のウイスキーをつくりたい」
弱冠20歳の鳥井信治郎が、サントリーの前身である鳥井商店を開いたのは1899年のこと。
海外から続々と輸入される洋酒を前に、
「いつの日か日本人の手で、世界に誇るウイスキーをつくりたい」という想いを抱きます。
しかし、日本で本格的なウイスキーづくりなど、誰も経験したことがありません。信治郎にあったのは、
「年月をかければ、日本でも必ず本格的なウイスキーづくりはできる」という信念と、
「とにかくやってみる」という強い意欲だけでした。

幾多の苦難を乗り越え、1923年10月、信治郎は山崎蒸溜所の建設着手に漕ぎつけます。蒸溜釜は、大阪の鉄工所で製作。
直径約3.4m、高さ約5.1m、重さ約2トンという巨大な蒸溜釜を、蒸気船に乗せて淀川をさかのぼり、
陸揚げの後はコロを敷いて運ぶのですが、途中にある東海道線の線路が最大の難関でした。
どれほど時間がかかるかわからないため、列車の通らない深夜に、
ゆっくりゆっくり、グラグラ揺れる蒸溜釜に肝を冷やしながら、なんとか渡り切りました。
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操業開始当時の山崎蒸溜所と蒸溜釜
日本初のモルトウイスキー蒸溜所、完成。
翌年11月11日、山崎蒸溜所がついに完成しました。
いまでは世界で高い評価を受け、多くの国で愛飲されているジャパニーズウイスキーの第一歩は、この瞬間に記されたのです。
シリアルナンバー0001の樽は、いまも貯蔵庫の中で大切に保管されています。

後日、信治郎は、自分を支え続けてくれた母親に自分の夢の結晶を見せたいと、
足の悪い母親を背負って、山崎の駅から蒸溜所までの道のりを歩いたといいます。
後年、「国産ウイスキーを醸造するということは多年の夢であり、
ようやく実現の第一歩を踏み出した山崎工場に、母親を背負って行き、隈なく工場を案内したので、
母親も非常に悦んでくれたことは、終生忘れえない感激であった」(当時の社内報より)と記しています。
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操業開始当時の山崎蒸溜所
継承と革新。気持ちを新たに。
蒸溜所の中をつらぬく町道をのぼっていくと、神社があります。
椎尾神社の秋の祭礼は、毎年サントリーの主催で執り行われます。
信治郎が奉納した神社幕も、この日は拝殿にお目見え。祭礼は、11月11日11時11分ちょうどに始まります。
93年前、蒸溜釜に最初の火が入ったといわれる時間です。
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椎尾神社 -
鳥井信治郎が奉納した神社幕
蒸溜所の人間たちは、心ひとつに拝殿に手を合わせながら、
信治郎の志からはじまった、日本のウイスキーづくりの原点に立ち返るとともに、
この先も倦まず弛まずより良いウイスキーをつくりつづけると、気持ちを新たにするのです。
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つくり手を代表して玉串奉奠を行う藤井工場長 -
山崎蒸溜所
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