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ジャパニーズウイスキー物語 水薫る

第四話 大衆が認めた香味

トリスウイスキーがウイスキーブームを呼ぶ

安い、旨い『トリス』の製品化を進言した佐治敬三は、終戦後の寿屋復興の一翼を担った。まずは爆撃により焼失した大阪工場の再建責任者として指揮を取る。さらには終戦から半年の期間に財団法人食品化学研究所を設立。後にこれはサントリー生物有機化学研究所へと発展するのだが、敗戦の混乱の中で一私企業が社会貢献を謳って研究財団を立ち上げた例は稀だった。

1919年(大正8)生まれの敬三は、二十代後半にさしかかった頃で若い情熱に満ちていた。何よりも六十代後半で老いを隠せなくなった父が、仕事への精気だけは失っていない。自らも奮い立たないでいられない。その敬三が、ふと姿を消すことがあった。
トリスバー1号店の盛況(昭和25年)

信治郎のブレンドレシピの解読をするためだった。父は何も教えてくれない。敬三自身も教えられて覚えるものではない、とわかっていた。研究室で試行錯誤する。わからなくなると、いまでいうチーフブレンダーの大西為雄のいる山崎蒸溜所へと向かう。貯蔵庫へ入り、樽からモルト原酒のサンプルを採取したりもした。
「モノいわぬ原酒と会話できるようにならないと、一人前のブレンダーとはいえぬ」
信治郎はよくこう語った。敬三もその境地を体感しようとしていた。


談笑する信治郎と敬三

そんな日々の中、『サントリーオールド』発売1ヵ月後の1950年(昭和25)5月のこと。東京・池袋に1軒のバーがオープンする。看板にはトリスバーとあった。
オーナーは久間瀬巳之助。彼は『トリス』の人気ぶりを見て、世の中が豊かに成長して行けば必ず洋酒の時代がくると予測した。久間瀬は敬三に相談する。ふたりの思いは一致していた。酒はトリスとカクテル。価格を明示して、とにかく安くて気軽に飲めるバーとした。敬三は協力を惜しまなかった。こうしてトリスバー1号店は誕生した。
進駐軍向けラジオ放送から流れるテネシー・ワルツを聞きながら飲むトリスが、人々の舌と心を和ませる。世相は徐々に明るさを取り戻しつつあり、このトリスバーが新風を巻き起こすことになる。
1952年頃には朝鮮動乱の特需景気によって、国民所得がほぼ戦前の水準に回復してくる。久間瀬の業務提案を受けて、寿屋は洋酒チェーンバーを展開。東京や大阪を中心にトリスバーが出現し、人々が仕事帰りに立ち寄る光景が多く見られるようになった。やがてまたたく間に全国へと広がって行く。


4基に増設された山崎のポットスチル
(昭和33年)

ウイスキーが大衆の酒となるのに『トリス』は大いに貢献した。1950年代末まで、『オールド』は入手困難な酒だった。豊かになりつつあるといっても、『角瓶』はようやくお金が入った時に飲む酒で、『ホワイト』(白札)はほんの少し背伸びが必要だった。普段は『トリス』のハイボールというのが主流といえた。
『オールド』は出荷量が少なく、中元歳暮期にデパートで目にしたかと思えばたちまちに消えてしまう。バーでは売り惜しみ、バーテンダーの間ではどこで入手できるのか情報交換までされていた。

マスターブレンダーの魂を込める


開高健のコピーのトリス広告
(昭和36年)。

ウイスキーの需要拡大とともに、山崎蒸溜所も設備拡張にせまられる。1957年(昭和32)から1959年にかけて新しい設備、装置を導入し、生産体制を強化した。 昭和30年代はトリスバーでウイスキーに魅了された人たちが、家庭の中でも味わいを愉しむようになる。家庭生活の洋風化が進み、ウイスキーはより浸透した。トリスバーのブームは1960年(昭和35)に最盛期を迎え、この頃にはウイスキーが市民生活の中にしっかりと根付いていた。 これこそが鳥井信治郎が想い描いた世界。その時、彼は81歳になっていた。息つく暇なくウイスキーづくりに執念を燃やした男が、やっと安らぎを覚えたといえよう。


信治郎の遺作となった
『ローヤル』

1960年。鳥井商店にはじまる寿屋の創業60周年を記念する製品として『サントリーローヤル』が発売される。信治郎にはもはや長時間ブレンドに携わる体力は残っていなかった。モルト原酒をテイスティングし、香味を構築するブレンド作業は敬三がおこなった。敬三の指揮の下、チーフブレンダーの佐藤乾を中心に山崎の最良のモルト原酒を集結し、厳選した。
信治郎は敬三のブレンドした試作品に指示を与えながら、新しいマスターブレンダーの登場の喜びを静かに噛みしめる。敬三はその時、これが父の遺作になる、との思いがあった。懸命にブレンドし、芳香、熟成感に信治郎のウイスキーづくりに生きた誇りを込めた。『ローヤル』はこうして生まれた。

翌61年、信治郎は敬三に社長とマスターブレンダーの座を託し、会長となる。この年、アメリカでサントリーがジャパニーズウイスキーとして初のラベル登録承認を受ける。

「ジャパニーズウイスキー」
と記された『オールド』の海外向け
ラベル(昭和37年頃)

「ジャパニーズと呼ばせたい」
それは信治郎の念願だった。それまではスコッチタイプという亜流的扱いを受けていた。スコッチの模倣ではスコッチに比肩し、また勝ることはない。それならば人々にスコッチを飲んでもらった方がよい。日本の風土で、日本人の味覚に合ったウイスキーをつくる。信治郎がウイスキーづくりを通して学び、信念としてきたことだった。それがウイスキー消費大国アメリカで認められた。スコッチ、アイリッシュ、カナディアン、アメリカン、そしてジャパニーズ。世界5大ウイスキーとして語られるまでに、サントリーウイスキーは成長したのだ。

その報に満たされたかのように、1962年(昭和37)2月20日、鳥井信治郎逝く。享年83歳。


好々爺となった晩年の信治郎

時の流れは、佐治敬三を悲嘆にくれさせる暇を与えなかった。 まず彼は1963年、社名を変更する。ウイスキーのブランド名、サントリーを社名とした。信治郎のスピリッツを物語るブランド名であること、そしてこの年ビール事業進出もあり、寿屋という名称を変えることによって新しく飛躍することを願ったものだった。
同年、山崎蒸溜所は増設を完了する。ポットスチル8基となり、原酒生産能力が3倍となる。右肩上がりのウイスキーの需要に対応するためだったが、敬三の予想をはるかに超える勢いで消費は伸びていく。ウイスキー新時代を迎えようとしていた。

[第4話 了]

  • 第一話 本格国産への挑戦
  • 第二話 研鑽が生んだ傑作
  • 第三話 激動の中での熟成
  • 第四話 大衆が認めた香味
  • 第五話 モルト原酒新時代
  • 第六話 香りの花束の継承
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