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ジャパニーズウイスキー物語 水薫る

第一話 本格国産への挑戦

世界の頂点に立つウイスキーの教え

弾けるようにストロボが明滅する壇上にふたりの日本人男性がいた。喝采の眩しい光の渦を浴びながら、彼らの表情は誇らしげでもあり、清々しくもあった。

2004年(平成16)5月、ロンドン。日本のブレンデッドウイスキーが世界の頂点に立つ。
最も権威ある国際酒類コンテスト、ISC(インターナショナル・スピリッツ・チャレンジ)2004において、『響30年』が全酒類部門の最高賞であるトロフィーを獲得するという偉業を成し遂げた。同時に『響21年』がウイスキー部門の金賞を受賞する。


中央/鳥井信吾マスターブレンダー
左/興水精一チーフブレンダー

この前年のISC2003では、シングルモルトウイスキー『山崎12年』がウイスキー部門で日本のウイスキーとして史上初の金賞を受賞している。ノーブル(高貴な)という表現で評価され、サントリーのモルト原酒づくりに携わる者たちの匠の技が世界的にも傑出していることが立証された。時を待つことなくその翌年の『響30年』の最高賞トロフィー受賞の栄誉だった。

『響30年』はファビュラス(最高だ)という最上級の賛辞を贈られた。

この上ない慶事といえよう。だが表彰式で喝采を浴びるふたりは、喜びを噛みしめながらも身が引き締まる思いでいた。
ひとりはチーフブレンダーの輿水精一だった。

たしかに自分たちが丹念に原酒をテイスティングし、ブレンドして誕生した誇りある一瓶である。ただこの重厚で華麗な香味は30年以上前に大麦を仕込み、蒸溜し、樽貯蔵した先輩たちから脈々と受け継がれてきた所産に他ならない。輿水は自分たちのいま一日一日がいかに重要かを再認識した。そして次世代へよりよい形でバトンを受け継ぐための研鑽を怠ることはできない、と実感した。
表彰状を手にした最高責任者でもある三代目マスターブレンダー、鳥井信吾も同じ気持ちでいた。


左/山崎12年、右/響30年

初代マスターブレンダー、鳥井信治郎。二代目マスターブレンダー、佐治敬三。彼らが創造し導いたフレーバーが、いま世界に花開いた、との感慨が鳥井信吾の胸中にはあった。そしてこの受賞はサントリーのウイスキーづくりを継承しつづけてきたすべての職人たちにこそふさわしいものだと。

いまを生きる我々は未来へ向けて、ジャパニーズウイスキーの香味をさらに豊かなものにしなくてはならない。これは到達点ではなく通過点でしかない。彼はその思いを深く胸に刻み込んだ。

樽貯蔵の神秘を垣間見た男


若き日の鳥井信治郎

日本のウイスキーづくりは1923年(大正12)、サントリー山崎蒸溜所の建設着手にはじまる。初代マスターブレンダーでサントリー創業者、鳥井信治郎の情熱、執念が生んだ蒸溜所が山崎だ。だがそこまでの道のりは、長く険しかった。

信治郎は1879年(明治12)1月30日、大阪で生まれた。両替商を営む父忠兵衛、母こまの間に、兄ひとり、姉ふたりの末っ子だった。13歳で学校を出るとすぐに奉公に出る。大阪商人の子どもにとって当然のことであり、当時は机上の学問より、実践を重んじた。

奉公先は薬酒問屋・小西儀助商店。漢方薬が主だったが外国から薬品を輸入し、ワインやブランデー、ウイスキーなど洋酒も扱っていた。時代の先端を行く、ハイカラな店だった。

西洋文明に対する憧憬の激しい時代の中で、思春期に入った信治郎はハイカラ趣味を強め、新しい感覚を身につけていく。まず調合技術を学んだ。さらに洋酒の知識や味と香りを嗅ぎ分ける舌と鼻を養っていった。


明治初期の小西儀助商店

信治郎の聡明さを物語るエピソードがある。優秀な奉公人の噂を耳にした何人かの同業者が、「この少年を高給で迎えたい」と店を訪れたという。やがてウイスキーづくりで『大阪の鼻』と呼ばれる彼の天与の資質は、この頃芽生えたといえる。

4年ほどで、絵具、染料問屋の小西勘之助商店に移る。こちらも調合技術。つまりブレンドを生命としている点で共通していた。


明治42年、赤玉の新聞広告

1899年(明治32)、20歳で独立。ささやかな家を借りて、鳥井商店を創業する。独立当初に商った品はワインや缶詰類だった。スペインの優良ワインを買い入れ、瓶詰めにして売り出してみてもいる。奉公先で本格志向を高めた信治郎の自信に満ちたワインだったが、食習慣の違いすぎる当時の日本人の味覚には酸味が強過ぎると感じられ、馴染めなかった。店には返品の山が築かれた。

それからはワインに取り憑かれ、調合の鬼となる。いかに大衆の舌にのせるか。甘味料や香料を買い込んで、ブレンドに没頭した。

1907年(明治40)、甘味葡萄酒『赤玉ポートワイン』が誕生する。この製品こそが企業として飛躍するきっかけとなる。前年に鳥井商店から寿屋洋酒店と社名変更をし、社員の仕事への意欲も高まっている時だった。


大正3年頃の寿屋洋酒店

その頃、信治郎はイミテーション・ウイスキーを入手していた。第1次世界大戦前からスコッチの市場攪乱を狙い、穀類を原料としたアルコールに香料を混ぜただけの粗悪品がヨーロッパで大量につくられ、世界のウイスキー市場を荒らしていた。信治郎も買ってはみたものの不純物が多くて使い道がない。もてあまし仕方なくワインの古樽に詰めて倉庫に置き、いつの間にか忘れてしまう。ところが何年か経ち、これは何だろうと試飲してみると樽熟成による変化で味わい深いものとなっていた。

「これや。ウイスキーの熟成とは、これや」

信治郎は樽貯蔵の神秘を知る。その神秘に魅せられる。魂が揺さぶられるほどの高揚感だった。本物をつくってみたい。それは大きな信念となっていった。
明治から大正に変わり、信治郎はウイスキー事業へ向けて駆け出す。だが周囲の反応は彼が熱するほどに冷ややかなものとなっていった。

寿屋社員はもとより、信治郎が信頼する財界人や学者までもが反対した。本格的なウイスキーづくりはスコットランドやアイルランド以外の地では不可能だと考えられていたからだ。なによりも蒸溜所建設となると寿屋の全資金を賭けることになる。品質の善し悪しは大麦を仕込んで蒸溜した後の貯蔵という長い年月を経なければわからない。その間の資金繰りを考えるとあまりにリスクが大きい。

まさに四面楚歌。それでも信治郎は商社を通じてイギリスからウイスキー製造に関するあらゆる文献を取り寄せ、学び、研究した。

「わしには赤玉ポートワインという米のめしがあるよって、ウイスキーには儲からんでも金をつぎ込むんや。自分の仕事が大きくなるか小さいままで終わるか、やってみんことにはわかりまへんやろ」

周囲の反対の声に、信治郎は最後にこう答えて、決断した。

[第1話 了]

  • 第一話 本格国産への挑戦
  • 第二話 研鑽が生んだ傑作
  • 第三話 激動の中での熟成
  • 第四話 大衆が認めた香味
  • 第五話 モルト原酒新時代
  • 第六話 香りの花束の継承
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